転がるイシあたま

医療系の雑談ブログです

上下の見解の相違

 昨日「左右」の話をしたので(「政治的中立は、どこ?」)、今日は「上下」にしてみましょう。

 病院同士の会議の場などで,病院長や救急部の部長が「うちはどんな患者でもとにかく受けますから、遠慮せずにどんどん紹介して下さい」と格好良いことを言ってくれることがあります。しかし、その病院の現場の人に話をこっそり聞くと、「上はそんなことを言うけど、こっちは大変なんだよ。全部無制限に受けるなんて、無理」とやつれた顔でこぼされることもあります。
 同じ組織で同じものを見ていても、立場によって見解が違う、ということなのでしょう。

 アメリカで警察官による露骨な黒人差別が定期的に話題になります。で、市長や警察署長は「うちの警察には人種差別をするような警察官はいない」と堂々と述べる(というか、それ以外のことを言えるわけがない)のですが、実際にどうか、というのは「上」ではなくて「現場」の人にインタビューしたらわかるんじゃないでしょうか。特に白人“以外”の警察官に。人種に関係なく“同僚”を自分と同格の人間として扱う白人警察官は、容疑者に対しても同じ態度をするでしょうし、肌の色が違うのは“同僚”ではない、とする警察官は、容疑者に対しても同じ態度でしょう。
 秘密厳守でインタビューをしたら、興味深い結果が出てくるんじゃないかなあ。


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百人一首連想(84)藤原清輔朝臣

「長らへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき」藤原清輔朝臣

 83番に続いて、またまた「暗い歌」です。83番では「山の奥にも」で「空間」が歌われていましたが、84番はただひたすら「時間」が扱われます。
 昔はとっても辛いと思っていた時代だって今になったら懐かしく思える。それと同じように,長生きをしたなら、今のこの辛さも将来は懐かしく思えるようになるかもしれない。
 ……悲鳴を上げたくなります。
 誰にでも「今にして思うと……」という過去の思い出はあるでしょう。だから「憂しと見し世ぞ 今は恋しき」だけだったら救いも希望もあります。だけどそれがあらかじめ上の句でしっかり封鎖されているではありませんか。これで一体どうしろと?
 「しのぶ」「恋しい」にだけ注目してこれを「恋の歌」と解釈しましょうか。「世」があるけれどそれは大胆に無視します。すると、過去も苦しい恋だったけれど、現在も苦しい恋……あああああ、やっぱり救いがありません。誰か、ヘルプミー。
 ……それとも、「世」という名前の女性への想いだったりして?

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政治的中立は、どこ?

 昭和の時代に右翼の人に対して「中立的な意見」を言ったら「お前はアカか」と罵られたことがあります。「右翼の人の意見」がその人にとっては「中立」でそれ以外はすべて「極右」か「左翼」だった、ということなんでしょう。当時試してはみませんでしたが、もしも同じ意見を共産主義者に向かって言ったら恐らく私は「この右翼め」と罵られたはずです。高校生の私はこのとき「言葉尻の論理的正しさ」や「信念の強さ」や「声の大きさ(激しさ)」ではなくて「意見が違う人とでも(すぐに罵らずに)会話がきちんとできること」が「人間の重要な価値」である、と学びました。
 ところで最近自民党がマスコミや学校に対して「政治的中立」を言っていますが、そもそもそれを要求している彼らの立ち位置は「中立」でしたっけ? 「自民党の立場(というか、現時点では安倍さんの立場)」ですよね。つまり「中立」ではありません。で、「中立ではない人」が他人には「中立」を要求するのは(特に権力を持った人の場合)、危ういと私は感じます。それは自分の政治信条の押しつけでしかありませんから(で、権力からの信条の押しつけは、民主国家では基本的人権の侵害だと私は考えます)。さらに中立ではない自分の意見を押しつけるのに「中立」という“隠れ蓑”を使うのは、言語的にも論理的にもこすからいやり方だ、とも思っています(あくまで私の個人的な意見です)。
 自民党を批判するものだけではなくて「自民党は正しい」「自民党の主張に賛成だ」というニュースや論説に対してさえも、「それは中立の態度ではないからそんな報道をしてはならない」と自民党が文句を言うのだったら、その時は自民党の主張に耳を傾けても良い、とは思いますが。
 あるかないかわからない、少なくとも定義困難な「中立」よりも「意見の多様性」の存在を認め、それを尊重する態度の方がよほど好ましいと私は思っています。


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死語(221)多重人格

 1866年ロバート・ルイス・スティーヴンソン(『宝島』の作者としても有名ですね)は『ジーキル博士とハイド氏』を発表、評判となります。「二重人格」という言葉がこの本によって有名になりました。しかし二重人格そのものは1816年にすでに症例報告がされていました。19世紀中に、三重人格や六重人格も報告されています。こういった報告から「無意識」に関する考察が様々おこなわれ、その一つの“成果”が「フロイトの“無意識”」でした(*1)。

*1)『異常心理の発見』クリフォード・アレン 著、 小林司 訳、 角川書房(角川選書38)、1983年、1200円

 脱線します。
 よく、「フロイト読まずのフロイト否定派」に本の上で出くわすことがあります(どう見ても「フロイトの入門書」「解説書」を読んでいるだけで、原著を読んでいないで堂々と“フロイトの主張”を否定できる人)。もちろん「読む義務」なんかありません。だけど「読まずに否定できる」って、すげえ洞察力だなあ(「1を聞いて10を知る」?)と感心はしておきます。それと、19世紀末から20世紀初めに「無意識」についていろいろ述べている人はたくさんいて、その中で“淘汰”に耐えて生き残ったのがフロイトだ、ということの意味についてちょっと考えても良いのでは、とも思います。少なくとも当時の、シャルコー、ジャネ、ブロイラー、プリンスなどが「無意識(あるいは、それに相当するもの)」について述べていたこととフロイトの考え方の比較くらいしてから(つまり、フロイトだけではなくてフロイト以外も読んでから)否定して欲しいものだ、と思うのです。
 さらに脱線します。20世紀初めにやたらと「否定」されていた人として、私はフロイト以外にアインシュタインのことも思い出します。ただ(フロイトの場合と似ていて)、アインシュタインが(否定したのではなくて)立脚した古典物理学理論(マックスウェルの方程式とかローレンツ変換)や光速度の測定実験結果についてどう考えるのか、を提示した上でアインシュタインの理論をきちんと否定している人(本)って、これまでにお目にかかったことがないんですよね。ニュートン力学も怪しいとか、熱力学の第一法則さえ理解していない本でアインシュタインを否定しているのだったら読んだことがありますが。

 閑話休題。

 さて、「フロイト」のところで登場した「ジャネ」は「解離」という概念を提唱した人です。
 人があまりに悲惨な状況に陥ってしまった場合、その強烈なストレスから「自分」を守るために「そのストレスを受けて破壊されてしまった自分」を「無事だった自分」から分離してしまうことがあります。これが「解離」です。自己防衛のために「なかったことにする」とか「見て見ぬふりをする」わけですが、もちろん「ある」わけです。ここで重要なのは「無意識の下に押し込んでしまう」のではないこと。だって「壊れている自分」も「自分」ですから「意識」も「無意識」も兼ね備えているのです。ただ解離の「仕切り」の向こう側に押し込められているだけ。人は多かれ少なかれこの機構を使って自分を守っています(だから「解離」があるというだけでは、異常ではありません。むしろ解離がない人の方が心配かも)。ただ、あまりに徹底的に解離ができてしまうと、それが独立した人格を兼ね備えてしまうことがあります。その「別の自分」が一人存在していたら「二重人格」である、と私は理解しています。二人だったら三重人格、三人だったら四重、となります。
 日本でこの多重人格(解離性同一性障害)が医学の世界でも広く言われるようになったのは、私の記憶では20世紀の末頃。「反対派(解離性障害など存在しない)」と「賛成派(存在する)」とがけっこうシビアに対立していたのを覚えています。で、反対派の人が「じゃあ、調べてみよう」としても、絶対に見つかりません。だから「やはり存在しない」という確信が強化されます。しかし賛成派の人が「この人にはありそうだ」と診察をしていたら、ひょいと「別の人格」が顔を出す。たしか神戸大学でけっこうたくさん発見されていたように私は記憶しているのですが、1990年代のことなので私の記憶は怪しくて確かではありません、と先に謝っておきます。
 ともかく、90年代には日本では症例報告が多かったはずですが、最近は数が減っているはずです。もしかして、言葉が「多重人格」から「解離性同一性障害」に変わっただけではなくて、その出現状況にも何か変化があるのかもしれません。(かつては急激に悲劇の進行になることが多かった「精神分裂病」が、「統合失調症」と呼ばれるようになる頃から妙に穏やかな経過を取るようになる人が多くなったことも考え合わせると、精神障害そのものだけではなくて、それを取り巻く社会状況の方に、何か質的な変化が起きているのではないか、と私は想像をしています。(すべて、とは言いませんが)ある種の精神障害は「個人と社会の関わり」によって生じるものなのかもしれません(うつ病などその代表と言えるでしょう)。

参考図書
ジーキル博士とハイド氏』スティーヴンソン 著、田中西二郎 訳、新潮文庫、1967年(88年43刷)、200円
 「二重人格」が登場する本として有名ですが、ジーキル博士とハイド氏は、厳密には解離性同一性障害ではありません。「薬物(化学物質)」の作用によって別の人格(と体型)を出現させているのですから。「二重人格」というか「二重人間」と言った方が正確かもしれません。
 科学に関して、18世紀は「物理学が科学になった世紀」19世紀は「化学が科学になった世紀」でした。そういった「素晴らしい科学に熱狂する世紀」に、科学によって不幸になる人の物語が書かれていたことに、私は文学の“意味”を感じています。
 つまり私は本書を『フランケンシュタイン』(メアリー・シェリー、1818年)の系譜に置いています。



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犯人の同類たち

 おそらく2ちゃんねるあたりには「障害者なんか死ねば良い」とこれまで(そして今でも)公言している人たちが巣食っていることでしょう。公言しなくても腹の底で思っている人はもっといるかもしれません。そういった人たちは、今回の「施設に侵入して無抵抗の障害者をぶすぶす刺して回った人間」の同類、と私は認識しています。
 ただ、そういった「実際に(行動や言葉で)障害者を攻撃する」人だけではなくて、たとえば「妊娠中に胎児に障害があることがわかって堕胎した」人もやはり“同類”に分類できるのではないか、と私は思いました。「障害者は死ねば良い」という思考と行動は共通ですから。
 そうそう、障害者に限定する必要はありません。高齢者についても「役に立たない老人は早く死ね」と言う(思う)人たちもまた、“同類”では? としたら、あの犯人の同類や同調者は日本には実はとても多いことになりそうです。
 もちろん、こういった人を個人として責めても、何の解決にもなりません。私は(そういった人たちが障害者の存在そのものを容認しないのとは違って)そういった人たちの存在を容認します。ただ、その行動は容認しないだけ。
 日本社会のセイフティーネットがあまりに貧弱だから、弱者が自分よりも弱い人間を攻撃して鬱憤を晴らす、という悪しき面が今回の事件では噴き出ているのではないか、というのが現時点での私の想像です。だったら、福祉をもう少し(少しと言わずもっともっと)充実させた方が、日本社会の安全性が高まるんじゃないです?


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○○合わせ

 私が子供の頃に「食べ合わせ」として「鰻と梅干し」「天麩羅と西瓜」などが言われていました。科学的根拠も経験的根拠も乏しい言い伝えですが、子供の私は「要は食べ過ぎをしなければ良いんだろ」なんて単純化して思っていました。
 医学の世界にも、薬同士の「食べ合わせ」というか「飲み合わせ」があります。「併用禁忌」ということばでネット検索をかけたらすぐに見えますから興味のある方はどうぞ。薬同士だけではなくて、薬剤と飲食物(アルコール、グレープフルーツジュース、納豆、大量の牛乳など)との飲み合わせもあります。
 面白いのは「病気と薬の組み合わせ」。有名なところで「伝染性単核球症とペニシリン」があります。
 「伝染性単核球症」(長い病名なので私の世代の医者は「インフェクシャウス・モノ」と短くしたのかしていないのかわからない略称で呼びます)は、別名「キス病」(唾液感染をするのです)とも呼ばれるEBウイルス感染症です。この病気の症状は基本的に「熱のある風邪」や「発疹」ですが、細菌感染症と考えられて抗生物質のペニシリンが処方されると、発疹の確率がどんと増します。ペニシリンはウイルスには効きませんから、不要の薬でわざわざ症状を増やすことになるので、医者は用心が必要です。外来で「初めての人と一箇月前にディープキスをしました」なんて教えてくれたらすごく参考になるんですけどね。


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19人殺しても死刑にはならないでしょう

 「障害者施設殺傷事件 19人死亡 男は刃物と結束バンド持ち込みか」(NHK)
 池田小学校の事件のあと近くの小学校でも警備がすごく厳しくなりましたが、私は「次があるとしたら、幼稚園とか病院とかではないだろうか」とこのブログかmixiか@niftyかに書いた覚えがあります。今だったら「ソフトターゲット」と言えば良いでしょう。で、私の悪い予想が当たってしまった、というか、予想以上に悪いことが起きてしまいました。
 ところで、今回出頭して逮捕された容疑者が真犯人で単独犯だとします。すると彼は、死刑にはならないでしょう。

障害者施設 殺傷事件」(NHK)
》相模原市によりますと、植松容疑者が衆議院議長の公邸で手紙を渡そうとしたことなどを受け、ことし2月19日に警察から「他人を傷つけるおそれがある」と連絡があり、措置入院の対応をとったということです。その12日後の3月2日に医師が「他人を傷つけるおそれがなくなった」と診断したことから退院させたとしています。(07月26日 12時04分)

 つまり、精神障害者が犯した犯罪ですから「心神喪失者」の扱いになる可能性が大です。
 ただ、「措置入院の12日後に退院」というところに私は引っかかります。わずか12日ですって? そこに非常に引っかかります。
 「最近精神病院に措置入院をした」と聞いたら「ああ、この人は精神障害者なんだな」と思いません? だけど、あの厳しい措置入院の退院基準を短期間に難なくクリアできたということは、もしかしたら彼は「入院」という“実績”を得るために最初からそういった行動をしたのではないか、という疑いを私は持っています。その目的は「どう行動したら精神障害者の“お墨付き”を得られるか探る」「精神障害者のふりをして死刑を免れる」。
 もしこの私の悪い想像が当たっているのなら、この犯罪はずっと前から非常に綿密に計画されたもの、ということになります。
 私が勤務する病院では、今夜の当直のドクターが「もし固く決意した悪人が来たら、どうしたらいいんだろう」と怯えています。“ソフトターゲット”の場合、どんなに守りを固くしたとしても、固く決意した悪人にはその防御は必ず破られてしまいますから。まったく、どうしたら良いんでしょうねえ。

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「同心円」の中心は自分ですが……

 人は「同心円」の中心に自分を置き、そこからの距離によって「人の価値の軽重」を決める傾向があります。私自身その(赤の他人よりは身近な人間を大切にする)性向を持っていることを自覚するので、その事実を否定しようとは思いません(ただし、それに無条件に盲従しようとも思いません。たとえば“自分に近い者”が重大な病気になった場合、私は自分で診察しません。価値観がしゃしゃり出て診断を間違える可能性が大になりますから。この態度もまた「身近な人間を大切にする」の一つの表れかもしれませんが、身近な人間には評判が悪いです)
 で、そういった「同心円」について、こんなことを言った人がいます。

》確かに、人は自分の近しい者の命の重みを重大視する。だが、その同心円の輪をできるだけ広げようと努力する者と、その輪を限定させて、その輪による命の分別に疑いすらも抱かない者との間には決定的に差がある。
──『ブギウギ 敗戦後』坂東眞砂子 著、 角川書店(角川文庫)、2013年、629円(税別)

 で、「疑いすらも抱かない者」が「純血」を愛しホロコーストや差別を平気でする人だそうです。(ただし「同心円の輪の外側の人たち」に対して、無関心ではなくて攻撃を好んでする人は、つまりは「攻撃が好きな(攻撃をして傷つける行為を正当化するための理由として「同心円」を使っている)人」でしかない、とも思えますが)

 できることならこの「同心円」を、地平線の向こうまで、できたら地球全体にまで、さらにできることなら宇宙にまで広げることができたら、グローバリズムの住人としては生き易くなるはずなのですが。このままでは、宇宙人が地球を観察にやって来たら「“同心円の外側”にいる我々を、地球人はとにかくまずは攻撃しようとするのかな」と理解されちゃいますよ。


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亡国論で国が亡びる?

 「女子学生亡国論」なんてものが昔はありました。1962年に暉峻康隆・早稲田大学教授が発表したものですが、要するに、婦人参政権も気に入らなきゃ女性が大学に行くことも気に入らない、という戦前の感覚が大威張りをしている「論」だった、と私は記憶しています。
 で、今の日本は女子学生だらけですが、結局日本は亡びてます?
 「亡国論」と付いてはいませんが、私が「亡国論」で思い出すもっと古いものは「満州は日本の生命線」です。「生命線」ですから失ったら日本は死ぬ(亡びる)、という主張ですよね。で、敗戦によって、満州どころか、朝鮮・台湾・南洋諸島・南樺太・千島・沖縄などを失っても、日本は亡びなかったように私は思っているのですが、これは私の勘違い?

 私の守備範囲での「亡国論」は、83年に発表されて現在の日本でもまだばりばり現役の「医療費亡国論」です。こちらは吉村仁・厚生省保険局長が「医療費が増大したら、日本経済は活力を失い、日本の国自体が危うくなる(だから医療費は削減しなければならない)」と唱えたもので、現在も医療費抑制の「錦の御旗」として機能しています。
 しかし、OECD加盟国の中で、日本よりも医療費の対GDP比が高いのに経済成長も日本より高い国がごろごろ存在する「現実」を見ると、「医療費が伸びると経済が活力を失う」はただの「イメージ」ではないのか?なんてことを私は思います(一応医者の端くれですので、“エビデンス”を重視する立場なのです)。
 なにか「そういった主張をしなければならない“理由”」はあるのでしょうね。たとえば「医療費が増大したら、これまでのような無駄遣いや大盤振る舞いがやりにくくなる」「医療費が増大しても政治献金の増大や天下りポストの増大は望めない」とか。

 マスゴミの皆さんは政府のスピーカーを熱心にお勤めするだけではなくて、そういった一見正しいように見える「亡国論」が本当に正しいのかどうか、調査・検証をした方が良いのではないか、と私には思えます。
 たとえば「満州は日本の生命線」という亡国論にしがみついた人びとの行動によって、日本はたしかに(無条件降伏をしなければ)国が亡びる一歩手前まで追い詰められました。「満州を失うこと」ではなくて「亡国論」そのものによって国が亡びようとしたわけです。これは「亡国論信者」による亡国行動で、言わば「亡国論の急性症状」だと私は捉えています。そして、医療費亡国論によって医療をがたがたにしてしまったら、こんどは「亡国論の慢性症状」が出るのではないか、という危惧を私は抱いています。(医療や福祉を軽視あるいは敵視する態度は、個人レベルだったら日常生活での基本的な節制を軽んじる態度に私には見えます。不摂生を続けていたら“メタボ”になってしまいません?)
 「生命線」を失っても女子学生が増えても国は亡びませんでしたが、「亡国論(信者の行動)」によっても国が亡びることは(たぶん)ないだろう、と私は楽観しています。ただ、“無条件降伏”までに大量の犠牲者が無駄に出るのではないか、ということが気になるだけです。


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百人一首連想(83)皇太后宮大夫俊成

「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」皇太后宮大夫俊成

 「世の中よ」と終助詞の「よ」で句が始まるとは、斬新です。
 世の中に絶望し、すべてを捨てて道さえない山の奥に入ったら、そこでも鹿の悲しい鳴き声が聞こえた、という救われない絶望の歌です。ところで、俊成さんは百人一首撰者の定家さんの父親ですが、自分の父親の歌を選ぶのにわざわざこの絶望の歌を選択した息子の“理由”は一体どんなものなんでしょう?
 この歌で私が注目したのは「山の奥にも」の「も」。「も」ということは「山の奥」以外の所でも鹿が鳴いているわけです。藤原俊成さんの行動範囲から考えるとそれは「都」。しかし平安京でそんなに鹿が盛んに鳴いているとは私にはイメージできません。そこで「都」と「山の奥」で共通しているものは、と考えると、「俊成さん」自身です。つまり、どちらの地でも聞こえる「鹿の悲しい鳴き声」は、実は俊成さん自身の悲しい鳴き声なのではないか、というのが私の推測です。だとしたら、山の奥に入ろうと海の底に行こうと、どこに行っても「鹿の声」は聞こえることでしょう。
 やっぱり救いはありませんね。


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