転がるイシあたま

医療系の雑談ブログです

嗅ぎ煙草入れ

 手の指を思いっきり広げて手首を反らせると、親指の根元に三角形の凹みができます。これを「anatomical snuffbox 解剖学的嗅ぎ煙草入れ(または解剖学的嗅ぎ煙草窩)」と称します(*)。
 「嗅ぎ煙草」とは、煙草の粉末を吸い込んで鼻粘膜からニコチンなどを直接吸収させるものです。口の中でくちゃくちゃ噛んで口腔粘膜からニコチンなどを吸収させるのが「噛み煙草」ですが、こちらは鼻を使うから「嗅ぎ煙草」で、煙草の匂いをくんくん嗅いでうっとりする、という行為の対象物ではありません。映画やテレビドラマで、アメリカ人がよくコカインを鼻から吸い込むシーンが登場しますが、これは嗅ぎ煙草で「鼻から薬物を摂取する」ことに慣れているからコカインも平気で同じことができるのかな、なんて「嗅ぎ煙草(やコカイン)」に慣れていない日本人である私は感じています。
 で、「嗅ぎ煙草入れ」ですが、嗅ぎ煙草を吸い込むときにこの親指の付け根の凹みに嗅ぎ煙草をひとつまみ置いてそれを鼻に持っていくのに使うからこの名前がついたそうです。


*)「解剖学的嗅ぎタバコ窩」(いつでも何回でも再学習☆応援講座)http://kana-ot.jp/wpm/learning/post/24

 この図に書いてあるように、長母指伸筋の腱と短母指伸筋の腱・長母指外転筋の腱でこの凹みの縁は形成されています。指を動かす筋肉はやたらと数が多くて、私は解剖学の授業では泣いていました。あ、厳密には、授業では泣きそうになって、試験の後に泣いていました。ただ、数が多いからこそ手では微妙な作業ができるわけです。嗅ぎ煙草を吸い込むなんて、お茶の子さいさいです。
 そうそう、この「嗅ぎ煙草入れ」、医療に応用できないかな。鼻炎や副鼻腔炎で鼻から薬を吸入したいとき、今は専用の吸入器を使います。だけどこれだとプラスチックゴミが増えるので、薬をこの「嗅ぎ煙草入れ」にちょっと盛ってそれを鼻から吸い込む、としたらゴミの減量ができるかもしれません。


人気ブログランキングに参加中です。励みになりますのでクリックをよろしく。

PageTop

大腸菌、小腸に居れば小腸菌?

 「健康に良い○○菌」の宣伝でよく聞くのが「生きて大腸まで届く」というセリフです。
 胃の中は菌にとっては過酷な環境です。強酸である胃酸がじゃぶじゃぶとすべてを洗い、それに平気で耐えられるのは抗酸菌(結核菌など)とヘリコバクター・ピロリくらい。というか、胃酸のもっとも重要な役目は「殺菌」ですから、菌が素直に死んでくれないと困るわけです。ですから「生きて大腸まで届く」ためには菌は胃酸から生き延びなければなりません。では、なんとか胃を通過したとしましょう。ところが小腸もまた、菌にとっては過酷な環境です。ここでは胃酸は中和されていますが、こんどは、界面活性剤である胆汁や膵臓からの消化酵素がどっと襲いかかってきます。これらをかいくぐり、なんとか目的地の大腸までたどり着けるのは、口から飲んだうちの何パーセントくらいなんでしょうねえ?
 さらに、大腸にたどり着いたにしても、そこにはすでに固有の細菌叢がしっかりと出来上がっています。そこに潜り込んで地歩を確保するのは、大変です。最終的に何%くらいが大腸の粘膜に定着できるのでしょう?
 ただ、大腸に細菌叢があるということは、胃や小腸を生きて通過する菌は存在している、ということです。
 ということは、「生きた菌」が小腸も通過するわけですから、小腸にも細菌叢が存在するであろうことが考えられます。「生きた菌」が通過していて、そこが無菌環境ということは考えにくいでしょう?

 実際に小腸にも細菌がふつうに存在していることが最近わかってきました、というか、その異常による病態が知られるようになった、と言った方が正確でしょう。
 わりと最近のことですが、学生時代に習っていないことばに最近出くわしました。「SIBO(Small Intestine Bacterial Overgrowth)」(*1)です。

参考サイト:
*)「SIBO- Small Intestine Bacterial Overgrowth」http://www.siboinfo.com/overview.html

 「シーボ」なのか「サイボ」と読むのかは存じませんが、小腸内で過剰に細菌が増殖することによって様々な症状が出現する、ということのようです(英語力に自信が無いことには自信があるので、きちんと読めていない可能性はありますが)。
 ここで問題になりそうなのは「正常な小腸細菌叢」というものがあるのかどうか(あるのでしょうけれど、個人個人で相当違うのではないか、と私は予想します)、と「異常になった」としてその診断確定をどうやって行うのか、です。小腸から検体を採ってくるのは大変です。では血液検査で何かマーカーの数字を見ることにしましょうか。その場合でも、「その人のふだんの数値」と比較しないと意味のあることが言えないのではないか、というのが、私の予想です。
 それにしても、私の学生時代には「暗黒大陸」(*2)だった小腸について、こうやって色々なことが具体的に言えるようになったのは、医学の進歩ですねえ。

*2)「暗黒大陸」http://ishiatama737.blog.fc2.com/blog-entry-5438.html


人気ブログランキングに参加中です。励みになりますのでクリックをよろしく。

PageTop

熱風

 砂漠を渡っているときに砂嵐に襲われるのは恐ろしい体験だそうですが、その砂嵐が砂漠の外を襲う場合もあります。サハラ砂漠で有名なのは「シロッコ」。砂嵐が地中海を越えてイタリアまで到達するものです。このシロッコは健康にはとっても悪そうですが、それを小道具として使っていたのが「ゴルゴ13」の「サンタ・アナ」でした。
 「サンタ・アナ」でシロッコの有害性が強調されていたのは「目への影響」でしたが、シロッコに限らず、熱風がずっと吹きつけるのは、たとえばお肌の健康にも悪そうです。物理的に水分が強制的に奪われるし、熱刺激が継続的に与えられるので感覚神経がずっと興奮しなくちゃいけません。
 ということで、ヘア・ドライヤーは頭皮や毛髪に健康的なのか?という疑問を私は持っています。もちろんメーカーの方は「何の問題もない」と主張するでしょうけれど、“第三者”の検証結果って、ありましたっけ?


人気ブログランキングに参加中です。励みになりますのでクリックをよろしく。

PageTop

脳内会議のメンバー構成

 昨日は久しぶりに休日で暇だったのでテレビのザッピングをしていたら「脳内ポイズンベリー」という奇妙なタイトルの映画をやってました。途中から見たので最初はわけがわからなかったのですが、どうも主人公の女性(いちこさん)の行動や発言を5人の“メンバー”が彼女の脳内で(ただし多重人格ではなくて一人の人格の中で)会議をやって決めているのだ、という舞台設定が数分見ていて理解できた瞬間、そのままはまってしまいました。会議の議長は「優柔不断」で、あとのメンバーは「ポジティブ」「ネガティブ」「感覚」「記録」と性格が極端に分かれているため、つねに事態は紛糾します。だってメンバーは全員別の意見を持っていますから、会議がまとまらないんですもの。しかも、会議の結果としての(いちこさんの)発言は、それまでの“経過(会議での紛糾)”を反映しないシンプルなものとなっていますから、周囲には誤解を与えやすいものとなっています。さらにいちこさんは過去の恋愛でひどいトラウマを抱えていてその記憶を封印しているため、恋愛状況における行動がときにとっても衝動的で、さらに周囲に誤解を与えてしまうことになります。
 この脳内でのコミュニケーションギャップと脳外での人対人のコミュニケーションギャップの“二重奏”によって、いろいろ(観客には)笑える事態が画面では次から次へと出現することになってしまいます。
 ただし、ただ笑っていれば良い、というものでもありません。心理学的な観点からは(「好き」の意味とか、成長とは、とか、対人スキルなどについて)考えさせられることもけっこうありました。
 ところでこの「脳内会議」、他の人も(というか、私もあなたも)やっているんですよね? いちこさんの場合は5人で上記の内容の構成でしたが、人によって会議のメンバーの数や構成メンバーの性格づけはそれぞれ異なるでしょうし、議長を誰が担当するかも違うでしょう(「犯罪者」や「社会の迷惑」の脳内では「衝動」と「欲望」が強くて「モラル」が欠けている、とか)。
 ユングは「性格分類」としてこの「脳内会議」は8人のメンバーで構成されている、と述べました。実際には「論理」「感情」「感覚」「直観」の“4人”なんですが、それぞれに「内」と「外」の担当があるため、結局“8人”必要になるわけです。映画のいちこさんのように5人でも会議をまとめるのは大変なのに、8人もいたら意見を集約するのは大変そうです。「脳内ポイズンベリー」の原作者は、このユングの性格分類か「解離性障害」の知識から,本作のアイデアを思いついたのかな、なんてことを私は想像しています。
 ちなみに私の場合、自分の心を探ってみると、どうも6人くらいは“メンバー”がいる雰囲気ですし、その中で論理君と直観君が主導権争いをしている雰囲気です。議長は誰なんだろう? やっぱり優柔不断君?


人気ブログランキングに参加中です。励みになりますのでクリックをよろしく。

PageTop

猫は「猫踏んじゃった」を弾けるか?

 私が勤務する病院では、毎朝病院のどこかで「ラジオ体操」が行われています。病棟の食堂にそのとき気が向いた患者さんが集まって、音楽療法士のキーボード演奏に合わせてゆったりと体を動かしています。ついでですが、専門療法士が関与していても、厚生労働省はまだ健康保険で音楽療法を認めていないので、これはコストを取らない無料サービスです。私は体操には参加しませんが、パソコンに向かっていても耳は開いていますから、演奏や歌は聞こえています。
 で、最近その伴奏が日によってときどきどことなく変わることに気づきました。それを私の病棟に配属されている音楽療法士に聞いてみると「あ、別の病棟に新人が入ったので、時々伴奏を任せているんです」と。なるほど、楽譜が同じでも、演奏する人が違えば「別の曲」に聞こえたわけです。そういったことに気づく人がいたことに、音楽療法士は嬉しそうでした。

 戦前に「猫が弾いてもピアニストが弾いてもピアノは同じ音が出るか」という議論がありました。兼常清佐(かねつねきよすけ)さんが言い出しっぺらしいのですが、その主張のキモは「ピアノの鍵を押すのが猫でもピアニストでも、鍵から先のメカニズム(ハンマーとか弦)はそんなことにはお構いなしに「同じ音」を出す」「だからピアニストの“タッチ”というものは存在しない」という機械論的なものでした(*1)。

*1)『ピアノの音色はタッチで変わるか ──楽器の中の物理学』吉川茂 著、日経サイエンス社、1997年、2000円(税別)

 ピアノの「音」を単体で(たとえばオシロスコープで)分析したら、たぶん猫が鍵を叩いてもピアニストが叩いても画面に見えるのは「同じ波形」でしょう。だけど同じ「鍵を押す」という動作にも、加速度をつけるかつけないかつけるとしたら鍵を押す行程のどこにつけるか、鍵をどこまで押し込むか、鍵を離すときに素早く上げるかゆっくり上げるか、といった表現技術のテクニック(そしてそれにピアノのアクションがどのように応えるように調律がされているか(*2)、という)、つまり「タッチ」の問題が生じます。

*2)『調律師、至高の音をつくる ──知られざるピアノの世界』高木裕 著、 朝日新聞出版(朝日新書)、2010年、700円(税別)

 さらに、「音楽」は「単体の音」ではありません。音と音とがどうつながるか、和音の中でどの音(のつながり)を強調するか(作曲家によって“隠されたメロディー”の発見)、という「ピアニストの曲解釈」が非常に重要です(その名人がたとえばシプリアン・カツァリスだと私は思っています。実際に演奏を聴いたのは30年近く前の倉敷でのことですが、すごかった)。
 初っ端の「ラジオ体操」の伴奏のような、電子楽器の(ピアノのようなメカニカルな機構を持っていない)鍵盤でさえ、同じ楽譜でも弾く人によって私のような素人でも気づくことができる「違う曲」になります。一つ一つの音は同じですけどね。だったら、もしその鍵盤を猫が弾いても、私はおそらく「おや、また演奏が変わったな」と気づくことでしょう。まさか演奏者が「猫」だとは思わないでしょうが。で、その曲は「猫、弾いちゃった」?


人気ブログランキングに参加中です。励みになりますのでクリックをよろしく。

PageTop

1円を気にする者

 ガソリンの値段が1箇月前よりレギュラーで1リットル10円は上がったように思います。この前家内と車を走らせていて給油をするときにその話になりました。で「ここで給油をする」と宣言をされたガソリンスタンドに車を入れると家内はおもむろに前回給油したレシートを取り出します。そこに印刷されたバーコードを機械に読ませるとリッターあたり2円安くなる、とのことでした。私がふだん使うところは同じ作業をすると1円安くなるだけなので、ちょっと損をした気分です。ただ、そのとき給油したのは35リットルですから、“得(あるいは“損”)”をしたのはせいぜい35円とか70円(プラスその消費税分)なのですが。
 だけど消費者としては、同じ製品なら1円でも安い方が単純に嬉しいわけです。

 ところがアベノミクスは「インフレになるのを喜べ」と。
 「1円でも安い方が嬉しい」人間に向かって「インフレにするから喜べ」と言われても、素直に喜べません。手取り(可処分所得)が増える(物価上昇分を上回る)のなら喜びますが。
 経営者の方もそうではないです? インフレで名目上売り上げが増えても利益がそれを上回って増えなきゃ喜べないのでは?
 「人が何を喜ぶか」に思いが至らない経済政策は成功しないのではないか、というのが、私のシンプルな予測です。


人気ブログランキングに参加中です。励みになりますのでクリックをよろしく。

PageTop

検証結果の公表はいつ?

 東日本大震災で何がどうなったのかの「検証」がいろいろ発表されています。だけどなんだか歯切れの悪いまるで誰かをかばっているあるいは誰かに責任転嫁をしようとしているかのようなものが見えて、私はあまり気持ちがよろしくありません。検証するべきは「事実(データ)」なのに、大切にされるのは「意図」の方なのかな。
 どうも日本では「検証」が好まれない傾向がある、と私は感じています。何かを決定したあとその決定が正しかったかどうかの検証がきちんとおこなわれている役所や議会や会社や学校がどのくらいあります?

 もしかしたら「(当事者あるいは第三者によって)厳しく検証をしない」は日本文化の伝統なのかもしれません。ただ、昔の日本政府が「検証」ができないわけではありません。実際に日露戦争や日清戦争では、政府の財政分析と日本全体の経済分析がきちんとおこなわれているそうです(*1)。

*1)『戦争の経済学』ポール・ポースト 著、 山形浩生 訳、 バジリコ、2007年、1800円(税別)

 戦争ではありませんが「非常時」と「政府」と「検証」の3つのキーワードで連想したものがあります。
 「東日本大震災は、すべての政治家に資質を迫った」ということばがあります(*2)。つまり「非常時」によってすべての政治家が「平時に安住している(非常時には使いものにならない)かどうか」の「資質」が問われた、と。ではその“検証結果”はどうなのでしょう。すべての政治家が“その時”どのように行動して「国民のため」に役立ったかどうか、「検証結果」を知りたいものです。

*2)『期限切れのおにぎり ──大規模災害時の日本の危機管理の真実』鈴木哲夫 著、 近代消防社、2016年、1500円(税別)

 本書には後藤田正晴さんの「『天災』は人間の力ではどうしようもない。しかし、ひとたびそれが起こったら、その直後からのことすべては『人災』だ」という言葉も載っています。阪神淡路大震災直後に村山富市総理大臣に語った言葉だそうです。
 そう言えば、東北ではまだ「人災」が続いていますね。そして、熊本のこれからは?


人気ブログランキングに参加中です。励みになりますのでクリックをよろしく。

PageTop

文字通り(3-15)「一杯」

「一杯は人酒を飲む,二杯は酒酒を飲む,三杯は酒人を飲む」……人より大きな杯らしい
「目一杯」……コップ一杯分の眼球
「腹一杯」……一杯飯を詰め込んだお腹
「精一杯」……精力が一杯分しかない
「力一杯」……一杯分の力
「一杯食う」……げてもの食い
「一杯機嫌」……おちょこ一杯でも上機嫌になれる省資源体質
「一杯飲み屋」……一杯しか飲ませない店
「一杯一杯」……二杯
「胸が一杯になる」……肺水腫か気胸か溺れたか


人気ブログランキングに参加中です。励みになりますのでクリックをよろしく。

PageTop

愚答の前には愚問がありました

 「「不機嫌会見」から1カ月… 蓮實重彦さん、本音を語る」(朝日新聞)http://www.asahi.com/articles/ASJ6H5QYGJ6HULZU010.html
》「どうしてみなさん同じような質問しかしないのかと苛立(いらだ)ちました」「どなたかがまともな質問をして、わたくしを救って下さると思っていたのですが。みんな通り一遍以前の感じでした。何を聞きたいのかさえ分からない質問をする方もおられました」

 では実際にどんな「質問」だったのか、を「論より証拠」ですから、記者会見を文字(*)で読んで見ることにします。

*)「【全文】蓮實重彦氏「私を不機嫌にさせるのでお答えしません」最後まで噛み合わなかった三島由紀夫賞受賞会見」(蓮實重彦第29回三島由紀夫賞受賞会見)http://logmi.jp/144328

 たしかに「お答えしません」がけっこうな数登場しています。
 しかし「お答えしません」は英語表現なら「ノーコメント」です。「ノーコメント」があるから「不機嫌会見」だというのは、つまりは「ノーコメントは許さない」というお約束があって、蓮實さんが機嫌によってそのお約束を破った、ということ? だけど「許さない」というのは目上の人間に対してずいぶん無礼な態度では?(目下の人間に対してであっても失礼な態度ですけどね) それと「お約束」があるのならそれは最初から明示しておかないといけないのでは?(記者会見を始めるときに蓮實さんに「この席ではノーコメントは許されません」と事務的に伝えておけば良いでしょう)

 で「質問にまったく答えない蓮實氏」なんて文言が使われていますが、実際には「まったく」ではなくてきちんと答えている場面もあります。すると“問題”は「蓮實さん」ではなくて「蓮實さんが答えない質問」の側にあるのではないか、という仮説を立てることができます。
 まず、まともな受け答えができている質疑応答の「質問」を見てみましょう。
「もっと若い方がお取りになるべきだということがありましたけれども。ついこのあいだ、蓮見さん、早稲田文学新人賞で黒田夏子さんを選ばれて、それで彼女は芥川賞を取られました。 必ずしも「80歳の……」ということが理由なのか、それともまた別の理由があるのか、黒田さんも70代の後半ぐらいになっていたと記憶しておりますが、暴挙と言われる理由についてもう少し具体的におうかがいできればと思います。」
「黒田さんの世界は若々しさがあるということなんですが、ご自身の世界は、私はつまり若々しさを感じたということなんですが、そういうふうにはご自身では理解して書かれてはいなかったという?」

 これはつまり「蓮實さんの過去の活動」「蓮實さんの作品を読んだ経験」という「エビデンス」を含んだ質問で、しかも内容が的外れではなかったから蓮實さんも答えることができたのでしょう。
 対して他の「ひどい質問」はその質問者に対して「あんた、蓮實さんの作品をちゃんと読んだの?」と聞きたくなるものがあります。つまり「エビデンス」を欠いた質問あるいは「内容が的外れな質問」に対して蓮實さんは「愚問に対する愚答」を返しただけ、というのが私の見解です。

 あまりにひどいやり取りもありました。蓮實さんの「(『伯爵夫人』という作品が)向こうからやってきました。」に対して記者が「依頼があったから書いた?」と受け取るところ。作曲家が「メロディーが天から降ってきた」とか彫刻家が「石の中に埋まっていたのを掘り出しただけ」とか言うのと似ていて、『伯爵夫人』という作品の内容が向こうからやって来たのを蓮實さんはひょいと捕まえて文字化しただけ、というレトリックですよね。この程度の素直な言語表現を、言葉を商売道具にしているプロの記者が理解できないとは…… それとも作曲家が「メロディーが天から……」と言ったら「それは天国ですか? 宇宙ですか?」とか記者は真面目に質問するのでしょうか。

 で、「『ジョン・フォード論』は完結しなければいけないと思っておりますが。この作品についてどなたか聞いてくださる方はおられないんでしょうか?」とわざわざ「ここを質問してくれたら熱く語るよ」と蓮實さんが宣言しているのに、記者たちは完全無視を決め込んでいます。まさか「ジョン・フォード」あるいは「ジョン・フォードが蓮實さんにとっていかなる存在であるか」を記者たちは知らない? まあ全知全能である必要はありませんが、それならアドリブの才を活かして「ジョン・フォードは『駅馬車』くらいしか知らないのですが……」といった感じで教えを請うふりをして蓮實さんがいかなる人間であるかを深掘りする、というスタイルは採れません? というか、この記者会見では、蓮實さんがせっかく何かを答えても、そこからもう少し掘る、という作業を司会も含めて記者たちは最初から放棄しているように私には感じられます(で、「質問にまったく答えない」と評価する)。「記者である自分が語りたいこと」と「蓮實さんに語らせたいこと(自分が聞きたいこと)を無理にでも語らせること」とに熱中していて「蓮實さんが語りたいこと」には無関心な態度、と言えば良いかな。

 一体誰のための何のための記者会見だったのでしょう? 不勉強で無礼で失礼でアドリブの才にも欠けた人間集団による言語によるフルボッコ?

蛇足)蓮實さんの作品についてもジョン・フォードに関しても私は無知なので大したことは言えません。「ジョン・フォードは『駅馬車』くらいしか知らないのですが……」は実に私自身のことです。ただ、石森章太郎の自伝的な漫画のどれかで、石森章太郎のお姉さんがジョン・フォードについて熱く語るシーンがあったことを思い出しました。蓮實さんもきっと「熱く語りたいもの」を持っているはずですが、それを上手く引き出せないのは、聞く側の腕の悪さが露呈しているだけではないか、なんて不遜なことを私は思っています。

PageTop

モヤモヤする心中

 「生活保護調査「惨めになった」 利根川心中、三女初公判」(朝日新聞)http://www.asahi.com/articles/ASJ6N34FTJ6NUTNB006.html

 私は「親子心中」に対しては“否定派”の立場です。「親子心中」と報じられるのを見ると「心中ではなくて、子に対する殺人と親の自殺(未遂)」「親はなくとも子は育つ」とつぶやくのが常です。
 だけどこの「介護疲れ心中」に対しては、そう簡単な断言ができず、モヤモヤしたものを感じています。
 報じられている「47歳の娘」の供述がすべて正確なら、この裁判で「裁かれているもの」は一体何だろう、と思えてきたのです。「個人(容疑者)」を裁いているように見えますが、実は「介護離職」「機能しないセーフティーネット」「貧困」「格差」「家族のあり方」など、つまりは「日本社会そのもの」がここで裁かれているのではないか、と私には思えました。
 彼女がした行為は、私は否定します。きっぱりと。だけど、単に「懲役○年」とかを言い渡されたのを見て「これで一件落着」として良いのだろうか、とも思えます。少なくとも日本社会が今のままだと(あるいは「家族への依存」を強めようとしている今の風潮が強められたら)似たような事件はこれからも日本のあちこちで発生するでしょう。そういった未来から目をそらしていて、良いのかなあ。

 4年前のデータですが、こんな数字もあります。
「14年間で介護疲れ殺人・心中が550件―日本福祉大湯原准教授まとめ」(ケアマネタイムス/2012.3.21)http://www.care-mane.com/news/2722.html?CID=&TCD=3&CP=1

PageTop