転がるイシあたま

医療系の雑談ブログです

大腿骨頚部骨折術後の運命

 私は昔、いわゆる老人病棟を担当していたことがあります。患者さんの動きが少ないから一人で一つの病棟を丸ごと診ていましたが、そこには時々「転倒 → 大腿骨頸部骨折 → 手術 → 寝たきり」のコースをたどった人がたどり着いていました。まだ現在のように「手術 → 急性期リハビリテーション → 回復期リハビリテーション → 日常生活への復帰」というコースが確立していなかった時代だったからでしょう、手術の後に急性期リハビリテーションが短期間行われ、そこで歩けたら自宅へ退院、歩けなかったらそのまま寝たきり、という厳しい“運命の選別”が行われていた、という印象を私は持っていました。入院を受ける側としては、寝たきりにならないようになんとか動かしたいのですが、理学療法士どころか看護や介護のスタッフも手不足で、日常生活リハビリテーションさえままならない状態で、非常にもどかしい思いをしていました。
 そもそもなにゆえ骨折の手術をするかと言えば、ギプスなどの固定では治癒が期待できないからで、なぜ治癒を期待するかと言えば、前と同じように使えることを目指すからです。「転倒した」ということは「(不安定でも)歩けていた」ことを意味します。すると大腿骨頸部骨折手術の大目的はつまりは「歩行」で、それが寝たきりになるのだったら、骨折で痛い思いをした人にさらに手術で痛い思いをさせる必要は無いだろう、と当時の私は思っていました。

 しかし、今にして思えば、たとえ寝たきりであっても「生きて次の病院に行くことができた」ことに価値があったのです。手術後に死んでいたら、老人病棟にたどり着くことはできなかったのですから。

「第7章 大腿骨転子部骨折(いわゆる外側骨折)の治療 7.7予後」(Minds)http://minds.jcqhc.or.jp/n/med/4/med0016/G0000307/0092
》大腿骨頚部/転子部骨折後の死亡率は、術後3ヵ月では5.1~26%、6ヵ月では12~40%、1年では11~35%である。 死亡率を高める因子は、高齢、長期入院、受傷前の移動能力が低い、痴呆、男性、心疾患、Body Mass Index(BMI)低値(18 kg/m2未満)、術後車椅子または寝たきりレベル、骨折の既往などである。 また、術前の生活が自立していたものは死亡率が低い。
》・米国において大腿骨近位部骨折に罹患した患者の骨折後1年の死亡率は20%、さらに20%はなんらかの介助なしには歩行できていない(FF05609, EV level Ia)。
・ヨーロッパでは大腿骨頚部骨折(内側、外側を含む)を起こした患者は6ヵ月以内に12~40%が死亡し、死亡率は同じ年齢・性別に比べ12~20%高い(FF04627, EV level Ia)。

「超高齢者(90歳以上)の大腿骨近位部骨折に関する検討」(整形外科と災害外科)https://www.jstage.jst.go.jp/article/nishiseisai/61/1/61_26/_article/-char/ja/
》入院時に重篤な合併症を7例(16%)に認め,術後10日以内の死亡例を3例(7%)経験し,その原因は術中大量出血1例,消化管出血1例,肺炎1例であった.しかし死亡原因と既往症に関連はなく,周術期に新たな合併症が併発していた.ADLの変化では,受傷前に歩行可能であった37例中19例(51%)が術後に再度歩行可能となった.


 「たかが足の骨が折れただけで、どうして死ぬんだ。生きて入院して手術を受けることができた患者が術後に死ぬのは医者が悪いからだ」と思う人もおられるでしょうが、上にあるように、大腿骨頚部骨折後には何割かの人は世界のどこでも確実に死亡し、何割かの人は後遺症に苦しむのが、厳しい現実です。この現実(エビデンス)を無視して議論をしても、たぶんあまり良いことは起きないでしょう。

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レセプトによるチェック

 レセプトチェックは、今の日本では「値切り通達」でしかありません。医者が「治療にこれだけかかった」と請求書を回したら「高い!  これとこれとこれとこれは不要だ”!」と一方的に値切って値切った分だけ支払うための手続き。
 実際に「過剰な検査や投薬」というのもありますから、一概にこの「レセプトチェック」を否定はしません。不要なものに支払う必要はありませんから。ただ、どうせやるのだったら「日本の医療の向上」にも役立つ方向での「チェック」もできないものだろうか、なんてことを私は夢想します。
 たとえばC型慢性肝炎と肝硬変の病名がついている人で、レセプトをチェックしたらこの1年間肝臓の超音波やCT検査がしていないことがわかった、とします。これは「肝臓癌の早期発見努力」をしていないことになります。それは結局「末期になってから発見される = 莫大な医療費がかかる」ことも意味します。だったらチェック係の人は「肝臓の画像検査をお忘れじゃないですか?  それとも検査をしていて請求をお忘れですか?」と問い合わせをしたら、医者のメンツは潰れるかもしれませんが、患者と日本の医療費と日本の社会の幸福度は増します(少なくとも不幸度は減じます)。
 こんなわかりやすい例でなくても、たとえば何らかの薬剤を日常的に処方されている患者さんの場合、定期的に「(貧血とか肝腎機能などの)副作用チェック」をしているかどうかの“チェック”をしても良いのではないでしょうか。
 ただしこういったチェックは「命令」のためではなくて「確認」のためです。そこでその検査をするかどうかは、医師の裁量や患者の自己決定権の問題になりますから。
 人間誰しも「うっかりする」ことはありますので(それともそれは私だけ?)、私の場合はこういった“チェック”をしてくれたら、ありがたがるでしょう。


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敗れた血液

 「敗血症」を文字通り読むと「敗れた血液の病気」です。血液が何に負けたのか、と言えば、細菌にですが、これは同時に医者が病気に負けたイメージも私は重ねて感じられます。
 私が学生の時、感染症の講義で「医者が勝てない」と感じたのが「感染性髄膜炎」とこの「敗血症」でした。どちらも有効な薬剤がほとんどなく、高い致命率や重い後遺症がつきまとう感染症だったのです。
 「敗血症」は、英語では「sepsis」ドイツ語では「Sepsis」、古代ギリシア語の「Septikos」(崩壊、腐敗)が語源だそうです。なるほど「腐敗」の「敗」だったんですね。ところで「腐敗」は、何が何に敗れているのでしょう?  「敗」ってどう見ても「財産」を意味する「貝」が含まれている「良い漢字」のはずなんですけど(「敗の部首は貝ではなくて右側のノブンだ」という真っ当で面白くない突っ込みは期待していません)。
 ともかく、特定の臓器ではなくて「全身」が細菌に犯され、血液も細菌のための培地のような状態になっているのが「敗血症」です。たまたま細菌が血液中に迷い込んでうろうろしているだけの状態は「菌血症」と呼ばれて、敗血症とは区別されます。

 私が学生時代に習った敗血症の定義は、重症の感染症で、その証明のためには動脈血の培養で菌の存在が示されることが必要、となっていました。もう記憶はおぼろですが、動脈血の培養は2回、なぜか採血しやすい静脈血の培養は不可、でした。
 これって、臨床現場ではとっても“ハードル”が高いのです。そもそも血液培養のためにはそれ専用の試験管が必要ですし、慣れていればどうということはありませんが動脈からの採血手技も煩雑です。しかも弱ってひいひい言っている人から動脈血を抜くのはそれなりに“覚悟”が必要。しかもそれで診断がついたとしても、治療法は限られている。予後は悪いことがわかっている。
 これは“怠け者の自己弁護”になるかもしれませんが、積極的に検査をして確定診断をつけたい、というモチベーションが駆り立てられる状況ではありません。だって、ほとんど“見たら重症感染症であることはわかる”状態なのですから。

 2006年に「プロカルシトニン」という検査が保険で使えるようになりました。なんと3200円というお高い検査だったのですが、その特徴は「敗血症の診断に強い」こと。
 これは、細菌感染後、2〜3時間でもう反応して増え始めます。増えるのに半日かかるCRPを「昨日出したハガキ」としたらプロカルシトニンは「電報による知らせ」と言えます。医者としてはもちろん「早い知らせ」の方をありがたく感じます。
 ただ「プロカルシトニンさえ測定したら、敗血症は百発百中診断できる」と言ったら、それは嘘。「検査」ですべての病気が診断できるのなら、診察室から医者を排除して測定器械を据え付ければ良いのですが、(すでに医者になっている人間にはありがたいことに)まだそこまで「機械万歳」の世界ではないのです。
 そもそも「この人にはプロカルシトニンの検査が必要だ」と判断が出た瞬間、実はすでに「敗血症の診断」はほぼついている、と言うことができます。検査は判断の裏付けに過ぎません(そこを勘違いして「たくさん検査を出せばどれかあたって診断がつくだろう」と言うのは、ただの藪です)。

 最近の敗血症の診断基準はずいぶん“実戦的”になりました。ざっくり“日本語”に翻訳すると……
1)高熱あるいは低体温
2)頻脈
3)呼吸促迫
4)白血球がひどく上昇あるいはひどく低下

 なんだか矛盾する項目が含まれているようにも見えますが、要は、感染によって全身がまさに燃え上がっている、あるいは、もう燃え尽きようとしている、状態です。これを見て私は背筋が寒くなる思いでした。もしかしたらこれまでに何人も「敗血症の患者さん」をそうとは知らずに治療していたのではないか、と思うものですから。

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事故のマニュアル

 マニュアルには「守るべき最低限の手順」が書いてあります。ただし「マニュアルを守ること」が「安全の確保」「事故の予防」を保証するわけではありません。頭が固い、あるいは、決まりを守ることにしか興味がない人の場合、「マニュアルだけを守っている」態度がかえって事故を誘発することがあります。
 だったら「こうやったら事故が起きる」マニュアルも作って、そちらも現場の人間に読ませておいた方が良いのではないでしょうか。


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「偽善」を否定する簡単な方法

 世の中には、他人の行為を指して「あれは偽善だ」と非難する人がいます。だけど「偽善」を否定するためには、「非難」よりももっと良い方法があると私は考えます。

1)その「偽善」とは異なる明らかな「真なる善」を具体的に提示する
2)その「真なる善」の方が「偽善」よりも世界に貢献していることを証明(論証または実証)する
3)自分でその「真なる善」を日々実行する

 この3つすべてを満たしていたら、わざわざ大声で「偽善」を否定しなくても、世間には「真なる善」の方が普及することでしょう。「個人で実行可能」な「真なる善」が具体的に例示されているのですから。

 私個人としては、たとえ「偽善」だと大声で非難されているものがあっても、1)〜3)が満たされていなければ、「偽善? ふーん」です。だって「真なる善」を提示も実行もしない人の非難はつまりは「悪口を言いたい人が自分では「偽善」も「真なる善」も実行せずに悪口を言っている(=真偽を問わず「善」そのものを実行せずに他人を非難している)だけ」ですし、たとえ非難されている行為が本当に「偽善」だとしてもそれが「真なる善」よりも世界に貢献していたら、それはそれでけっこうなことだと思うものですから。
 「善の真偽」を問わなければならないのは、問わなければならない状況だけに限定しても、良いのでは?

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「マイナンバー」の三要件

 かつて「国民総背番号制」だと総スカンだったものが、「マイナンバー」だとOKになりそうなのは、不思議です。ただ、私自身はこの制度には賛成でも反対でもありません。善用したらよいもので悪用したら悪い結果をもたらしますが、制度そのものは価値的には中立だと思っていますから。

 誰かにとても大きなプロジェクトを立ち上げからすべて任せようと思ったら、担当する人間の「志」「信頼」「信用」をチェックする必要があると私は考えています。
 「志」は、「ある」か「ない」かではありません。「ある」のは当然。「高品質の志」であることが重要です。そしてその“品質チェック”は「本人」ではなくて「周囲」「社会」「歴史」が行う必要があります。「私には志があります」と強く自己主張するだけでは、不足なのです。(ただ「歴史は良心をもたない」(『真昼の暗黒』アーサー・ケストラー)なんて言葉もあるので、歴史は外した方が良いかもしれません)
 「信頼」は、人間性や態度です。不正や安易に走らず真面目・正直・誠実・倫理的に仕事をするかどうか。
 「信用」は仕事の正確性です。納期を守る・計算を間違えない、といった実務レベルでのこと。

 で、「マイナンバー」ですが、これにも“三要件”として「志」「信頼」「信用」をあげることができそうだ、と私は考えます。これをすべて満足する組織がこの制度を運用するのなら「善用するに違いない」と任せることができるだろう、と思っているわけです。
 で「志」ですが、どんな「志」によってマイナンバー制度が発想されたんでしたっけ? きれいごとだけではなくて、腹の内まで知りたいものです。
 「信頼」……ここで私が思うのは、「年金未納問題」のときの社会保険庁の仕事ぶりです。あのとき「この有名人は未納だ」と個人情報に手を突っ込んでこっそり眺めていた人たちがたくさん処分されませんでしたっけ? マイナンバーでも「この人にはどんな秘密が?」と勝手に個人情報に手を突っ込む人が政府には一人もいない、という断言ができる根拠はあります? そう言えば先日はどこかの市役所の職員が、人事異動の発表前に不正アクセスでその情報を眺めていたのがばれて騒ぎになっていましたっけ。「秘密」が漏れる一番の弱点は、モニターに一番近いところの人ではないか、と私は思っています。
 「信用」……ここでも私は年金を思い出します。こんどは「消えた年金問題」での杜撰な仕事ぶりです。「帳簿をきちんとつける」「きちんと足し算をする」ことさえできなかったわけです。

 ……「マイナンバー」は総務省だから、厚生省(厚労省)とは違って、大丈夫? 私にはそれを断言するだけの、根拠も勇気もございません。



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百人一首連想(29)凡河内躬恒

「心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花」凡河内躬恒

 「心あて」の「あて」は「あて推量」の「あて」。初霜と白菊の「白」が混ざり合って、「心あて」ではきちんと菊の花を認識して折ることができない、というちょっとシュールな遊びの歌です。このシュールさや遊びの部分を、正岡子規は『五たび歌よみに与ふる書』で、「一文半文のねうちも無之(これなき)駄歌に御座候」「この歌は嘘の趣向なり、初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣無之候」と酷評しています(*)。「写生・写実」を追究したらこの批評になるのは当然かもしれませんが、生真面目というかくそ真面目というか、それこそ「遊び」が足りないなあ、と私は感じます。ただ、正岡子規が生きて戦っていた時代背景を思うと、彼にそこまで遊びを求めるのは酷な態度かもしれません。彼にとっては「ことば」は“実戦の武器”でその「冗長さ・不正確さ」は「敵に利するだけ」だったはずですから。

*)『歌よみに与ふる書』(正岡子規/青空文庫)http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/2533_16281.html

 ところで、これが冬で一面の雪景色なのだったら「どこが白菊なんだぁ」と言っても“リアル”世界でも不自然ではなさそうですが、そうすると「菊と雪」で「秋と冬」が喧嘩をしそうです。(「霜」も冬のものですが、「初霜」だから先走って秋にやって来た、と私は解釈しています。これまた正岡子規には怒られそうですが)
 ちなみにこの歌で菊が他の色ではなくて白であることにも意味があります。「白」は「秋の色」ですから。
 五行の思想では「木・火・土・金・水」に、色は「青・赤(朱)・黄・白・黒(玄)」、季節は「春・夏・土用・秋・冬」がそれぞれ当てられます。だから同じ「金(かね)」に属する「秋」は「白い」のです。「北原白秋」はここから名前を採っているはず。(蛇足ですが「青春」「朱夏」「玄冬」もその仲間です)

 こうして、「秋〜!」と叫んでいる歌の中で「霜か菊か(霜だから冬だと思ったら菊があるから秋ではないか。どちらも白だから見て区別がつかないじゃないか)」とどうして心が惑うのか、それが魅力的な謎ですね。それをしみじみと味わうことができるかどうかは、「歌の値打ち」ではなくて「歌を受け取る人の値打ち」にかかわる問題かもしれません。

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食道癌をレーザーで治療する

 「食道癌」を私が初めて知ったのは、1967年にテレビドラマとなった「白い巨塔」でのことでした。食道を摘出してその代わりに喉の所に(なぜか体内にではなくて)体外に透明なチューブが設置され、患者役の人がミルクを飲むと白い液体がそのチューブの中を下っていくのが皆に見える、という不思議な映像があったことをかすかに覚えています。
 次に出会ったのは医学部での授業で、食道は胃腸に比べたら壁が薄いからすぐに外に浸潤して、食道のまわりの縦隔に散らばってしまうから治療が非常に難しい、手術ができるにしても多くは開胸と開腹が必要になるので(手術自体も、術後管理も)大変、と習いました。

「再発食道がん、88%で消失 レーザーと薬剤、京大」(東京新聞)http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2015052601001975.html

 そそっかしい私は最初「レーザーで癌を焼灼するのか」と思いましたが、薬剤との共同作業でした。「専用の薬剤」というのが何かはここでは明らかにされていませんが、おそらく「レーザー光線が当たると活性酸素を発生させる」といったメカニズムの薬物でしょう。

「医療用薬10製品に新効能などの追加承認」(ミクスonline)https://www.mixonline.jp/Article/tabid/55/artid/51605/Default.aspxに「腫瘍親和性の高い光感受性物質からなる同剤を体内に投与し、レーザ光が照射された病変部位の腫瘍組織を変性・壊死させる作用を持つ。」という薬剤があります。これのことかな。

 ちょっと気になるのは「再発食道癌」と限定されていること。初発の癌には無効……なわけはないですよね。どうして「再発限定」なんでしょう?


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中国の好戦派と利害が一致する人たち

 今「戦争法案」を推進している人たちが内心で一番望んでいるのは、「中国が(本格的開戦ではなくて)ちょこっと暴発してくれること」ではないでしょうか。盧溝橋の一発、ではありませんが、尖閣諸島あたりで中国軍が日本人が死なない程度に1〜2発撃ってくれたら、それで国論はまとまり一挙に法案は可決されさらには憲法改正にまで持っていくこともできるでしょう。
 実はそれは中国の好戦派の“利益”にもなります。“敵”の日本が中国を敵視する態度どころか公然と敵対行動を始めた、それに対抗しなければ中国は大変なことになる、と国内をまとめることができますから。
 ということは、“向こう”も国内のハト派などとの権力闘争に勝つために「日本がちょこっと暴発してくれたらいいんだけど」と期待しているかもしれません。期待している、というか、そのためにせっせと挑発をしている、と私は見ています。

 これまでの歴史を見ると、中国は割れると徹底的に割れて全土が騒乱状態になってしまい、しかもそれが非常に長期間に及びます。それを予防するためには、“外”に「敵」を置いて内部を結束させるのが一番手っ取り早い手段です。ある意味非常にわかりやすい。
 わからないのは、日本の好戦派の方です。中国の好戦派と“利害”が一致するとして、その「利益」は具体的には何なのでしょう? 中国が割れないことが、日本の利益?

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専門用語はただの小難しい言い換えではありません

 「医者の常識は、世間の非常識」と私たちはよく揶揄されます。ということは、もしも私が「世間の常識」に従って行動していたとしたら、それは「医者としては非常識」な存在、ということになるのでしょうか。さてさて、これは困りました。
 ところでこの文言は「医者」にだけ限定して言えることなのでしょうか。セールスマンや学者や大工や料理人やプロのアスリートや政治家や教師や乞食や宗教者なども、それぞれ特有の「職業上の常識」を持っているはずですが、それは「世間」から見たら「非常識」であることが多いはず。そうそう、“専門家”ではありませんが「恋に落ちた人間」もその「常識」は「世間の非常識」じゃないかな?
 「恋人たちの非常識」はともかく、「専門家集団」は、医者に限らず、「世間から見たら非常識と言える常識」を集団内で運用している、と話を一般化したくなりました。一番わかりやすいのは「軍人」でしょう。彼らにとって「殺戮と破壊」は「常識の範囲内」どころか「名誉ある行動」です。

 なぜ「専門家集団」の常識が「世間」から乖離してしまうのか、といえば、「日常生活」が“それ”で占められて慣れていることも大きいでしょうが、私は「専門用語」を『非常識」の主因として置きたいと思います。ある程度「世間」から隔離された集団は、学術的な専門用語だけではなくて、その集団内でだけ通じるジャーゴンや短縮語を使うようになる傾向があります。そして、そういった「言葉」によって「常識」が変容する可能性がある、と私は考えるのです。

 言葉と概念(シニフィアンとシニフィエ)は密接に関連しています。「何も示す対象を持たない言葉」は言葉ではなくて「雑音」あるいは「効果音」です。また、「“それ”を扱う言葉がない」ことは「その言葉を使う人たちはその概念を扱うことができない」ことを意味します。
 たとえばアマゾン奥地のピラハー族の言葉は数える時に「1」「2」「たくさん」しか語彙がないそうです。その人たちに3以上の数を扱わせると間違いを犯します(*)。つまり「3以上の言葉だけではなくて、その概念」がその人たちの脳内に存在していない可能性が大なのです。

*)『数学は歴史をどう変えてきたか ──ピラミッド建設から無限の探求へ』アン・ルーニー 著、 吉富節子 訳、 東京書籍、2013年(14年2刷)、2400円(税別)

 これをひっくり返すと、「専門用語を使う人間は、専門用語を使わない(その語彙を持たない)人間と、単に違う言葉を使うだけではなくて、違うことを考え違う常識を持っている」と言えます。単に「風邪」を「急性上気道炎」と呼ぶだけで「常識」がどのくらい変容するのか、なんて思いますよね。しかし、「風邪」はただの身体の状態ですが、「急性上気道炎」には「時間(急性)」「場所(上気道)」「病理(炎症)」が明示的に含まれています。つまり“それ”を「風邪」と呼ぶ人と「急性上気道炎」と呼ぶ人は「違う世界」に生き「違うもの」を見ているのです。だったら「常識」が違ってくるのも当然でしょう。

 ということで「医者の常識は……」と言って笑っている人たちも、ご自身が“専門家集団”に属しているのなら同じことが自分に対しても言えるのを意識されておいた方が良いと私は考えます。というか「自分は“世間”のスタンダードである」と主張できる人間が、「世間」にどのくらい存在しているのでしょう?
 私は「万人に通用する世間の常識」を前提にするのではなくて、「言葉は通じないものだ」を前提として、「ならばどうやってお互いに言葉と概念を共有するか」を考えた方が良いのではないか、と思っています。
 

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