転がるイシあたま

医療系の雑談ブログです

読書の速度は速い方が良い?遅い方が良い?

 私にとっては「読書」はほとんど「呼吸」と似た次元の「自然なこと」なのですが、そうではない人がおられることも知ってはいます。小学生の時に私が読んでいる本を見て「絵がないじゃないか」とあきれたクラスメイトがいたことも覚えていますが、そういった人が現在知っているであろうたとえば「酒を飲んで胸襟を開いて盛り上がる」といった楽しみを私が知らないのだから、まあ、おあいこですよね(私は下戸なのです)。
 ただ、あまりに「読書」を「特殊な行為」と言われると反論はしたくなります、しませんけれど(そんな暇があったら、本を読むかそれについて書くか(=読書)をしていたい)。さらに読書(行為)の一つの要素にすぎない「読書速度」について特殊にこだわって「速読」を絶対視したり逆に「遅読」を強く勧める向きを見ると、私は黙って首を傾げるだけです。
 さきほど書いたように読書は私にとっては「自然なこと」です。だから本の内容や文体と私の体調と読書環境によって、その時々の読書速度はそのとき最適なように自動調節されます。それをわざわざ人為的に速くしたり遅くするのは“不自然”です(少なくとも私にとっては)。私にとって読書で一番重要なのは「速度」ではなくて「読書の喜びを最大限得ること』なのです。(おっと、これはあくまで「仕事以外」で読む場合の話です。仕事で読む場合には「データをいかに効率よく最大限落ちなく吸収できるか」が重要になります)
 訓練をしたことがないので「速読」は知りませんが、一度「遅読」をしたことがあります。あるサークルで6年間かけて1冊の本をじっくりと“読”んでみたの。だけど途中で「最初に何が書いてあったっけ?」となって、私はなんどか途中まで通読することになってしまいました(最後まで読んでしまうとその本から読み取ったものに関して他の人と条件が違ってきますから、そのとき皆が読んでいるところまででストップです)。そんなことなら、最初から最後まで何度も通読した方がよほどその本から得ることが大きかったのではないか、というのが私の素直な感想です。「素読百遍」ならぬ「通読百遍」ですね。
 そういえば、「読書の速度」と言えば「読む速度」だけではなくて「書く速度」も含まれそうですね。たとえばこういった文章を書くのも、その内容やスタイルよりは「書く速度」の方が重要です? 私はさっと書いてしばらく寝かしておくのが好きなのですが、キーを叩く指の速度を極限まで上げる方が良い文章ができるのか、あるいは、じっくりじっくりぽつりぽつりとさみだれ式タイプで時間をかけた方が良い文章になるのか、どちらなんでしょう?

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貧困層を分厚くしたら得をする人たち

 古代ローマ時代ポエニ戦争終結後の時代、ローマ帝国の国土は荒廃し負債を抱えた小農家は土地を手放し上流階級は地方に大量の地所を入手しました。多数の奴隷が輸入され転落した小農家もそこに加わり「安い労働力」が大量に得られるようになります。その結果、富は上流階級に集中しました。
 イギリスの産業革命の時代でも、農耕地を追い出された小作人たちは都市に集中し「安い労働力」となりました。その結果富は資本家に集中しました。
 奴隷制度や農奴制度でも似たことが言えます。社会的・人為的に最貧困層(自分自身の財産どころか、基本的人権の“所有”さえ許されない人々)の形成を行うことによって、アメリカ南部の白人(の上の方)は“貴族の生活”ができたしロシア帝国のロマノフ王家は「世界一金持ちの王室」と呼ばれました。

 つまり「貧困層を分厚くすること」は歴史的には「上の階層のお財布」に非常に望ましいこととなっているわけです。

 さて、日本では、かつては「一億総中流」だったのがどんどん「格差社会」になっています。ということは「貧困層をもっと分厚くすることで、自分の富をもっと増やしたい」と願う“上の方の人”が行動している、ということなのでしょうか? だけどその「貧困層を分厚くする」こと自体が「国全体」として見た場合に良いことなのかどうか、誰か考えています? 私には「まず、金持ちをもっと金持ちにしたらその内にそのおこぼれが下に回ることで日本全体が豊かになる」と言うのは、「まず」ではなくて「まずい話」か「貧しい話」にしか聞こえないのですが。


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死語(202)オイルショック

 1973年の「第一次オイルショック」は、私にとっては「鼻水〜っ」でした。当時はまだ今のように「花粉症」はポピュラーではなく(というか、日本の医学界では「日本にそんなものがあるのか?」が“常識”でした)、私は自分の症状に戸惑いながら、ちゅんちゅん鼻をかんでいました。今にして思うと通年型のアレルギー性鼻炎の始まりだったのでしょう(スギ花粉症の症状がしっかり出るようになったのは、それから2〜3年後のことです)。箱入りティッシュは“贅沢品”だったので、京花紙と呼ばれる「ちり紙」を使っていましたが、もっと節約したいときにはトイレットペーパーを使っていました。包装紙を剥かずに芯を抜いて、内側から引っ張り出して適当なところで切って、鼻をちゅん、です(これだと、ロールペーパーを外から使う場合に比べて“本体”をくるくる回さずにすむので机の上などでの扱いが楽だったのです。ある程度使って中がすかすかになってきたら潰して鞄に入れることもできます)。
 ところが第4次中東戦争が始まり、OPECが原油の値段をどんと上げ、さらにアラブ諸国が「友好国」以外には原油を輸出しないと言い、さらにさらに、6日戦争では「石油減産・禁輸」で世界を脅そうとして失敗したOPECがなぜか今回は足並みを揃え、日本はエラいことになりました。原油の備蓄なんかろくにありませんから。
 そこで流言飛語が飛び交い、その結果が「買い占め騒動」です。まずはトイレットペーパーやティッシュなどの紙製品、ついで洗剤も店頭から消えました。灯油も当然のように買い占められました。政府は「20%の節電」を大宣伝しますが「信号はどうするんだ」「平等に分割停電ができるのか」「病院が停電になったら患者の命にかかわる」「熱帯植物園は植物が枯れてしまう」……あれれ、つい最近の日本でも似たことがありませんでしたっけ?  第一次オイルショックのときの“教訓”は、現在の政府には伝わっていなかった、ということなんでしょうか?
 ともかく私にとっては「鼻水」です。近くの店に全然なかったのでしかたなく繁華街のダイエーに行ったらそこで「お一人様○個限り」でちり紙を売っていました。「○」の数字は忘れましたが、私はとりあえず自分に必要な「一個」を買って帰りました。永遠にちり紙が生産されなくなる、なんてことは思っていませんでしたから。冷静だったのか、危機対応能力がなかったのか、それは自分ではわかりません。


参考図書:
オイル・パワー ──中東の石油王国』レナード・モズレー 著、 高田正純 訳、 早川書房、1974年、1300円
証言 第一次石油危機 ──危機は再来するか?』電気新聞 編、日本電気協会新聞部、1991年、1796円(税別)


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クラクションを鳴らしたら事故は回避できるのか?

 裁判で訴えられるというのは、大変なストレスです。それでも「自分が悪い」のなら自業自得。しかし、どう見ても「被害者」なのに「加害者」に「自分の損害を賠償しろ」と訴えられ、しかも裁判官にまで「そうだそうだ、被害者が加害者に償うべきだ」と言われたら……本当にそんな判決が出たそうです。

「無過失の証明なければ賠償義務 はみ出し衝突された事故で判決」(yahoo!ニュース/福井新聞)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150417-00010002-fukui-l18


》「仮に早い段階で相手の車の動向を発見していれば、クラクションを鳴らすなどでき、前方不注視の過失がなかったはいえない」と、過失が全くないとの証明ができないとした。

 居眠り運転で右側車線に飛び込んできた車に対し、クラクションを鳴らしたら、居眠りしていた運転手がはっと目覚めて瞬間的にどのような状況かを判断して即座にハンドルを切ってもとの車線に戻って行くから事故は起きなかった、そのクラクションを鳴らさなかったから賠償責任が被害者にある、というのが裁判官の主張のようです。 ……裁判官は「自分の主張が正しい」と証明できます? 証明できなかったら、「証明できなければあんたの主張は間違っている」と言った裁判官の主張に従って、この裁判官の主張自体も成立しないことになりますが。
 普通の人間だったら動作を起こすのに(行動しようと思って実際に手足が動くまで)1秒かかる、と私は教習所で習いました。さらに人間が行動して車が反応するのにまた時間がかかります。対向して時速60kmで走行する2台の車の距離は1秒間に約33mずつ近づきます。裁判官が主張する「早い段階」というのが何m前のことなのか、こちらも具体的に数字を知りたいですね。

 おっと、「クラクションを鳴らすなど」と「など」がついていますから、別の方法もこの裁判官は考えていたのでしょう。

 もちろん事故回避のためにクラクション以外に他の方法もあり得ます。
1)左にハンドルを切って歩道に逃げる。
2)逆に右にハンドルを切って自分も右側通行をすることで正面からせまってくる車の脇をすり抜ける。
3)瞬間的に急停止して全速力で後進をする。

 1)はたぶん、歩行者や沿道の家屋に損害が及ぶでしょう。それこそ自分が「加害者」になって被害を拡大しそうです。
 2)は、加害者が中途半端に車線をまたいでいたらスペースがありませんし、加害者の後ろに別の車がいたらそちらに正面衝突をしそうです(その場合には、その相手(三番目の車)から賠償金が取れる?)。
 3)瞬間停止できるブレーキって、ありましたっけ?
 無理難題、というか、ゴロツキの因縁というか……

 もちろん、まだ別の方法もあります。
4)空中浮遊をする。
5)瞬間移動をする。
6)片輪を浮かせて加害者をその下を通過させる。
7)バリアを張る。

 裁判官がどの方法を考えていたのか、具体的に知りたいところです。
 それにしても「完全な無過失の証明」って、「悪魔の証明」ではありませんか? それとも「対向車線のその位置に存在したこと自体が“罪”である(=原罪?)」という主張なのかな。

 ところで、これはあくまで「自賠責」に関する話ですが、まさにこういった「自賠責が適用されない場合」に備えて「任意保険」があるわけですよね。その任意保険をきちんとかけていなかった「加害者」の側には「無過失の証明を相手に求める」どころか「きちんとした任意保険に加入していなかった」というばりばりに「自分に過失があった」わけです。その「過失」をどうして「被害者」が負って賠償しなければならないのか、私には理屈が理解できません。自分は保険料をけちるから、それで生じた損害は誰か他人が負担しろ、というわけ?

 しかし「お金に困ったら、対向車線に飛び込めば良い」と思う人間が出てこなければ良いんですけどね。ぶつけられるのは迷惑ですし、裁判官のお勧めに従ってもらい事故を予防するために運転中ずっとクラクションを鳴らし続けるのは、こんどは周囲に迷惑でしょう。ところでクラクションを鳴らしたら本当に正面衝突事故は回避できるんですか?

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平安は貝合わせ/平成は数合わせ

 日本古来の雅な遊びに「貝合わせ」があります。トランプの神経衰弱を貝殻でやる、と言ったらあまりにアバウトな言い方かもしれませんが(というか、これは本来の「貝合わせ」ではなくて「貝覆い」だそうですが)、ハマグリの貝殻は本来のペアのもの以外の他のものとは合わないことに意味を持たせていたようです。

「2030年の発電コスト「原発が最安」 経産省試算」(yahoo!ニュース/朝日新聞)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150427-00000049-asahi-bus_all

》 原発の発電コスト試算では、前回試算と同じように原発事故後の損害賠償や、立地自治体への交付金などの費用を計上。11年に比べ、原発の安全対策費が増加したことも反映した。ただ、対策を強化した分、事故が起きる確率は半減したとみて、その分だけコストを低く見積もった。
 再生可能エネルギーは、前回試算で30年には下限のコストで原発を下回っていた「陸上風力」や「洋上風力」が、今回はともに原発を上回った。再生エネの国の研究開発費などを費用に含めたためだ。

 最初から「結論」があって、それに合わせて「原発のコストを低く見積もる」と「再生エネのコストを上乗せする」作業が行われたように私には見えます。「結論に合わせて、そのための数字をいじる」は“日本の伝統”ともいえますから(たとえば「人口動態予測」「地方空港の建設計画での収支予測」など)、今さら驚きませんが、「原発のコスト↓」と「再生エネのコスト↑」は、まるで同じハマグリの貝殻のように“セット”になるものでしたっけ? それとも「原発」と「絶対継続」が“貝合わせ”になっているのかな?

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栄養のつけすぎは不健康のもと

 いつもの、私が経験したことをフィクション化したお話です。

 そのとき入院してこられたΩさんは、数年前の脳卒中の後遺症で右側が完全に麻痺しさらに失語症もあり、嚥下障害も強いため胃瘻を最近造設された、というヒストリーをお持ちでした。今回の入院はそういった脳卒中後遺症とは別の話によるものですが、全身を管理するためにはそういったこともすべて考慮に入れる必要があるので、私は入院時にそんなデータも頭に入れて治療チームで共有することにしています。
 Ωさんが入院されてから、そうですねえ、2週間くらい経っていたでしょうか、昼食を胃瘻から注入中に3日ぶりに排便があったのですが、それが大量のタール便(上部消化管出血を思わせるもの)でした。ただ、血圧や呼吸などはまったく平常です。私も昼食を中断して駆けつけたのですが、結膜が貧血っぽいくらいであとは大した所見がありません。お腹を押さえても胃潰瘍とか十二指腸潰瘍の痛みのような訴えはありません、というか、失語症だから「ここが痛い」とは言ってもらえません。少なくとも胃や腸に穿孔があって腹膜炎を起こした、という触診所見ではありません。
 まずは一般血液検査(CBC)で貧血チェックです。すると血色素(ヘモグロビン)が7でした。血液を運ぶ成分が正常値の半分くらいです。二日前に微熱があって細菌感染を疑って白血球数を見ようとCBCをやっていたのですが、そのときのヘモグロビンは10、入院時は11でした。二日前には白血球は正常値で、その時には入院時に脱水状態だったからそれを補正したので本来の貧血が出始めたのかな、と思っていたのですが、ともかく「7」は穏やかじゃありません。輸血をしたくなります。
 ということで、消化器内科にお電話です。「タール便(上部消化管出血の疑い)」「3日前の便は正常(その時には出血はまだ無かった様子(あるいは出血が混じった便が大腸に届いていない))」「貧血が進行(現在はおそらく出血がばんばん)」「数箇月前に胃瘻を造設(そのとき内視鏡をやっていますから、少なくとも、進行胃癌ではない)」という情報から、私も消化器内科の医師も「出血性胃潰瘍か十二指腸潰瘍かな?」とまず思います。ところが胃瘻から胃の内容を引いて真っ赤かどうか見ようとしても、なぜか逆流がありません。体位を変えても引けません。これは困った、と私は思います。だって、出血の確認ができないし、緊急内視鏡をしてもらっても胃の中は特別濃厚流動食で満たされているのですから。
 それでも緊急内視鏡は必要だ、ということで相談がまとまり、Ωさんは検査目的ですぐに転院となりました。
 先方に到着して15時頃から検査が始まったのに、こちらに全然連絡がありません。一体どうなっているんだろうと思っていたら18時頃に電話がありました。
 胃の内側、胃瘻チューブが固定してあるところに潰瘍があって、そこから出血していたのだそうです。とりあえずその胃瘻は抜去され穴がふさがるのを防ぐためにバルーンタイプのものが差し入れられ、潰瘍と貧血の治療が始まったそうです。
 なんでそんなところに潰瘍ができたのか、私は不思議です。もしも胃瘻チューブの腹壁への固定がきつすぎたのだったら、数箇月後、ではなくて数日後に傷になってもおかしくないと思うものですから。友人の消化器内科医にそれを尋ねると、栄養がついて太って腹壁が分厚くなって、結果として固定部分が食い込んでしまって傷になった可能性がある、とのことでした。なるほど。これが本当なら、栄養をつけるのもほどほどにする必要がありそうです。私は「経鼻経管」と「胃瘻」を比較したら胃瘻の方をより強く支持する立場ですが、それでも恐いことはあるので油断はできません。そもそも医療行為に「手放しで安心してできること」なんてものはないのではありますが。

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個人を大切にしない態度

 差別は「人種」「国籍」「性別」「宗教」「職業」「出自」などの「レッテル」を頼りに(ふつうはネガティブな方向に)「人物判定」を行います。差別で大切なのは「レッテル」であって、「それが貼られた中身=個人」ではありません。
 ところで、差別でなければ「レッテルによる判定」をおこなっても良いでしょうか。たとえば「長男の嫁だから親の面倒を見るのは当然」とか「お前は跡継ぎなんだからしっかりしなさい」とか。私から見たら、これも「レッテル」だけみて「個人」を見ようとしない態度で、あまり愉快な行動には思えませんが。


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百人一首連想(23)大江千里

 「月見れば 千々にものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど」大江千里

 「月」と「秋」が呼応して歌全体を包み込みます。そしてその“枠”の中で「千々」と「ひとつ」が対比されつつ連携して「悲しみ」を浮き立たせます。
 この歌の“本歌”は「白氏文集」(白楽天)の「燕子楼」の「燕子楼中霜月夜秋来只為一人長」です。愛していた男に先立たれた女性が燕子楼の中で霜が降り月が輝く夜に「秋がやって来た、ただ私ひとりのために長い秋が」とさびしく月を見ているわけです。「長い秋の悲しみ」すべてが「自分ひとりのもの」というのは、世界没落体験ではあるまいに、と思いますが、それくらいもの悲しい気分なんでしょうね。
 で、大江千里さんはこの漢詩を踏まえて「わが身ひとつの 秋にはあらねど」と歌うわけです。悲しみの歌なのですが、「白楽天はああ言ったけれど、秋は私個人の専用物ではないよね、てへっ」とちょっとお茶目な感じもします。こういった感情に流されるだけではない“余裕”というか自己客観視ができる態度が教養の一つの効能なのかもしれません。

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「公園にラジウム」の4つのW

「高放射線量の公園からラジウム含む?土の塊 東京・豊島」(朝日新聞)http://www.asahi.com/articles/ASH4S6DVRH4SUTIL061.html

 どうにも剣呑な事件です。これ、もし意図的にやったのだとしたら、陰湿な悪質さを私は感じてしまいます。小さい子供の方が重要臓器が大人より地面に近いし、細胞分裂が盛んなので放射線の悪影響を受けやすいのですから。

 私が知りたいのは「4つのW」です。本当は「5W1H」でしょうが、WHEREとHOWは良いです。場所がその公園というのはわかっているし、スコップだろうとツルハシだろうと素手だろうと、埋めた手段は何でも構いませんから(起訴状には書かなくてはいけないのかもしれませんが)。

WHO:誰が埋めたのか、ということもですが、「誰が気づいたのか」にも私は興味があります。その理由は、後述。

WHY:動機です。「持てあまして捨てた」というのだったら、公園に埋める理由としては弱く感じますので。

WHAT:
》放射線の種類を検査すると、ラジウムが塊の中にある可能性がわかった。
 ラジウムから出るのはアルファ線ですからそれほど恐くありませんが、ラジウムが崩壊してラドンになってからあとはベータ線やガンマ線も出るので嬉しくないですね。
 「ラジウム 東京」で私が思い出すのは2011年の世田谷区の“事件”です(*)。

*)「世田谷の高放射線量、民家床下からラジウム」(日テレNEWS)http://www.news24.jp/articles/2011/10/14/07192529.html

 東京ってあちこちに埋蔵金ならぬ埋蔵ラジウムが散在しているんですか? 剣呑だなあ。世田谷では幸い健康障害は発生していなかったようですが。

WHEN:
》40時間いれば、国が避難の目安とする年間20ミリシーベルトに達する。
 「だから大丈夫」と言いたいのでしょうが、問題は「“それ”がいつ埋められたのか」です。子供って公園では大体お気に入りの場所に長居をする傾向がありません? もし埋められたのが1年も2年も前だったら「40時間」なんかあっさり突破されちゃいそうです。「20ミリシーベルト」で大したことが起きるとは思いませんが、必要だからおこなう医療用の検査でさえ「被曝ノー」の時代です。必要ない被曝だったらもっと「ノー」ですよね。
 ということで上述の「WHO」です。誰かが測定して気がついたのがことの発端です。だったらその人が以前に測定して異常がなかったのがいつかがわかれば、少なくとも公園利用者が被曝していたのは「その時よりは後」と絞り込むことができます。2011年以降、あちこちを定点観測している人は関東〜東北のあちこちにおられるのではないか、と想像していますので。もし今回初めて測定して気がついたのだったら、こんどは「なぜ今頃“そこ”を測定する気になったのか?」が私は気になりますが。


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医学の変容とそれへの対応

 先日ある医者の会で乾杯の音頭を取ったときに話した内容がこのブログに書いてもおかしくないものだったのでネタを使い回すことにします。一般化するために話の内容を一部改変しています。

 私が医者になった昭和の終盤には、医学は「治療医学」が主流でした。医者は「治してナンボ」の存在で、それ以外の医者(基礎医学、社会医学、予防医学、行政など)の人たちは大学ではちょっと肩身の狭い思いをしているように見えました。
 医者になってから、学校ではちょっとしか習わなかった緩和医療や、全然習わなかった漢方医学が少しずつ市民権を得るようになり、やがてリハビリテーション医学も広まってきました。その流れでしょう、21世紀になる頃には、医学そのものではありませんが医学が関与する介護保険も始まりました。
 こうしてみると「空間軸の拡大」が「医学全般」においておこなわれているようです。「病気」から「患者」へ、さらには「患者を含む環境」を医者が“診”ることが求められるようになったのです。
 それに対して治療医学は、それとは逆方向、「臓器」から「細胞」さらには「遺伝子」へと扱う対象が小さくなっていった(細密化された)のが面白く思えます。
 この前参加した内科学会では「先制医療」がトピックとして扱われていました。病気になる前に先制パンチを食らわす、という、漢方の「未病を治す」と似た考え方です。これは「空間軸」ではなくて「時間軸」の拡大、と言えます。そして、現在の先制医療は「治療医学」で言われているようですが、20世紀の医学の変容からは、この先制医療もまたその内に「空間軸の拡大」がおこなわれることになるでしょう。

 さて、こうやって「医学が扱う分野の拡大」がおこなわれると、一人の医者がどこまでカバーできるのか、という問題が生じます。少なくとも私には「すべてのカバー」は無理です。
 NHKが推奨している「ドクターG」は「治療医学全般のカバー」ができる医者ですが、私はドクターGも無理なのですから。だけど、「集合知」だったら何とかなりそうです、というか、何とかしなければならないでしょう。様々な分野のエキスパートであると同時に、他の分野の人とコミュニケーションがきちんと取れコーディネートもできる医師が集まってチームとして機能すれば、医学がこれからどんどん変容しても何とかなるのではないか、と私は考えています。もちろんそのベースは「治してナンボ」の医者だろうとは思いますが。

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