転がるイシあたま

医療系の雑談ブログです

文字通り(2-47)「蚊」

「蚊帳」……窓に網戸をはめれば家全体が蚊帳になる
「蚊帳の外」……蚊と仲良しになる一つの方法
「蚊に刺されたほど」……とっても痒い
「蚊の食うほどにも思わぬ」……少し痒い
「蚊の鳴くような」……小さい音でも耳につく
「蚊雷」……やはりうるさかった
「蚊の涙」……二酸化炭素を嗅ぎつけて喜んで近づいたらドライアイスだった
「赤家蚊」……レッドハウスが縄張りの蚊
「ゆすり蚊」……おらっ、さっさと血を出さんかいっ!
「飛蚊症」……目の前はいつも夏
「蚊食い鳥」……実は哺乳類
「蚊吸い鳥」……こちらは本物の鳥類
「蚊柱」……蚊を大量に集めて成型した柱
「蚊遣り」……あっちのみ〜ずはあ〜まいぞ〜♪


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蚊の季節

 私の目の錯覚でなければ、そろそろ「ぶーん」という音の発生源が目の前を通過する季節が始まったようです。ヒートアイランドでは“年中無休”かもしれませんが。

 「ブタから人へ感染」と言ったら、最近の「新型インフルエンザ」を思いますが(まさかお忘れではないですよね?)、私が子供の頃には「ブタ→ヒト」の病気は「日本脳炎」でした。初夏には「日本脳炎のウイルスを持ったブタが増えてきているから、注意するように」と毎年テレビニュースで言っていましたっけ。(実際には他の動物(牛、馬、山羊、鹿、猪など)にも感染しますが、ブタは人間の身近にいることと増幅動物(ウイルスの増幅にたいへん寄与する動物)であることで注目されていました)
 最近ではこの病気についてはあまり聞きませんが、かつては「原因不明でばたばた人が死ぬ病気」として恐れられた時代もありました。一年間に日本中で7000人が発病して半数以上が亡くなったこともあるそうです(*1)。私がみつけた統計では、1966年に2000人発症して760人くらいが死亡(グラフの目盛りが荒くて、目測です)となっていました。www.e-jasv.com/gijutu_pdf/sippei_15_ito.pdf
 1933年伝染病研究所の三田村篤志郎が、感染ネズミから蚊(コガタアカイエカ)が媒介することで他のネズミが発病することを証明して、感染経路が証明されました(*1)。そういえばこの時代には、人体実験で「蚊」が媒介する病気があることを証明したりしていますが(*2)、日本脳炎でそういった人体実験をしなくてすんだのは、よかったですね。実験が成功したら、タダでは済みませんから。

*1)『蚊の博物誌』栗原毅 著、 福音館日曜日文庫、1995年、1262円(税別)
*2)『自分の体で実験したい ──命がけの科学者列伝』レスリー・デンディ、メル・ボーリング 著、 C・B・モーダン イラスト、梶山あけみ 訳、 紀伊國屋書店、2007年、1900円(税別)
(「読書感想『自分の体で実験したい』」でこの本については書いていました)

 で、私が子供の頃には、集団で予防接種を受けていました。それが今では「こんなに少ない病気に予防が必要なのか」「ワクチンはコワイ」という風潮です。世の中って、変わるものですね。
 前述のグラフを見てもたしかに人間の発症はずいぶん減っていますが、ブタの感染率はどうなんでしょう。それも知っておきたいな。もしもブタの感染率が減っていなくて人間の発症数が減っているのなら、それは予防接種の“手柄”ということですが、どちらも減っているのなら予防接種は“過剰防衛”に分類されてしまいそうです。
 もちろん「感染経路を断つ」という戦略もあります。つまり蚊を減らす。パナマ運河工事の時に黄熱やマラリア対策ではずいぶん有効だったそうです(*1、*3、*4)。すると日本でも、ワクチンに頼らずに「蚊の発生源」をたたく(貯まり水をなくす)というのは、衛生学的には“正しい”態度かもしれません。ただ、各家庭にある雨水マスとか、そのへんに放置されているタイヤとか、それらを全部ケアするのは相当の手間ではありますが。
 蚊の完全撲滅運動をやってみたい人、どのくらいおられます?

*3)『世界史の中のマラリア』橋本雅一 著、 藤原書店、1991年、2718円(税別)
*4)『パナマ運河』山口廣次 著、 中公新書564、1980年、460円



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否定と肯定(読書感想『リハビリの夜』)

書誌情報:『リハビリの夜』熊谷晋一郎 著、 医学書院、2009年、2000円(税別)

 私がこの本を読むきっかけになったのは、『デザインの教科書』に熊谷晋一郎のことばとして「トレーナーによるリハビリは「痛みと怯えと怒り」でしかなかった。それは、トレーナーと訓練者との間に「ほどきつつ拾いあう関係」が成立せず、加害と被害の関係しかないからだった」と『リハビリの夜』から引用されていて印象的だったからです。医学とは無関係な本を読んでいるつもりだったのですが、読書は意外なところで意外な“出会い”があって楽しいものだとつくづく思います。

デザインの教科書』柏木博 著、 講談社現代新書2124、2011年、720円(税別)

 しかし……「加害と被害の関係しかない」とはショッキングな言葉ですが、「健康な状態」こそが「是」でそれ以外は「非」という立場の人が「リハビリ」のトレーナーだったら、「非」の立場にいる人(トレーニー)は最初から「否定されるべき人」になってしまうでしょう。「できる」が当たり前で、「できないこと」はすなわち矯正されるべき“罪”なのです。だから、最初は穏やかにあるいは親切に始まった“リハビリ”も、頑強に「できない」が続くとスムーズに「加害/被害」に移行してしまう。
 熊谷晋一郎が出会ったのは、言い換えれば、「現在の状態を否定」する態度。で、リハビリを実行する人が「現状を否定」することに熱心になると、リハビリを受ける人間は容易に“被害者”になるだろうことは、容易に想像できます。

 でも、別の“見方”もあります。「できる」ではなくて、「できない」を「ゼロ」とする立場からの視点です。そうしたら、そこから「できる」に少しでも近づけたらそれはすべて「プラス勘定」となります。たとえ全然できなくてもそれは最初と同じだから「プラスマイナスゼロ」。これだったらおそらく「加害と被害」ではなくて「協同」が出現しそうな気が私にはしますが、どうでしょう。

 そうそう、書き忘れていましたが、熊谷晋一郎は、新生児仮死の後遺症による脳性まひの障害者(一次運動野の障害のため、よくテレビなどに登場する、アテトーゼや言語障害が目立つタイプの脳性まひの人とは違って、言葉の使用に不自由はないが全身の筋肉の過緊張に悩まされるタイプの人)で、現在小児科医をやっています。採血の時に口まで使うテクニシャン(写真が載っています)で、それだけで(両手がちゃんと使えるのに)採血が下手な私は尊敬してしまいます。

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否定と肯定(読書感想『リハビリの夜』)

書誌情報:『リハビリの夜』熊谷晋一郎 著、 医学書院、2009年、2000円(税別)

 私がこの本を読むきっかけになったのは、『デザインの教科書』に熊谷晋一郎のことばとして「トレーナーによるリハビリは「痛みと怯えと怒り」でしかなかった。それは、トレーナーと訓練者との間に「ほどきつつ拾いあう関係」が成立せず、加害と被害の関係しかないからだった」と『リハビリの夜』から引用されていて印象的だったからです。医学とは無関係な本を読んでいるつもりだったのですが、読書は意外なところで意外な“出会い”があって楽しいものだとつくづく思います。

デザインの教科書』柏木博 著、 講談社現代新書2124、2011年、720円(税別)

 しかし……「加害と被害の関係しかない」とはショッキングな言葉ですが、「健康な状態」こそが「是」でそれ以外は「非」という立場の人が「リハビリ」のトレーナーだったら、「非」の立場にいる人(トレーニー)は最初から「否定されるべき人」になってしまうでしょう。「できる」が当たり前で、「できないこと」はすなわち矯正されるべき“罪”なのです。だから、最初は穏やかにあるいは親切に始まった“リハビリ”も、頑強に「できない」が続くとスムーズに「加害/被害」に移行してしまう。
 熊谷晋一郎が出会ったのは、言い換えれば、「現在の状態を否定」する態度。で、リハビリを実行する人が「現状を否定」することに熱心になると、リハビリを受ける人間は容易に“被害者”になるだろうことは、容易に想像できます。

 でも、別の“見方”もあります。「できる」ではなくて、「できない」を「ゼロ」とする立場からの視点です。そうしたら、そこから「できる」に少しでも近づけたらそれはすべて「プラス勘定」となります。たとえ全然できなくてもそれは最初と同じだから「プラスマイナスゼロ」。これだったらおそらく「加害と被害」ではなくて「協同」が出現しそうな気が私にはしますが、どうでしょう。

 そうそう、書き忘れていましたが、熊谷晋一郎は、新生児仮死の後遺症による脳性まひの障害者(一次運動野の障害のため、よくテレビなどに登場する、アテトーゼや言語障害が目立つタイプの脳性まひの人とは違って、言葉の使用に不自由はないが全身の筋肉の過緊張に悩まされるタイプの人)で、現在小児科医をやっています。採血の時に口まで使うテクニシャン(写真が載っています)で、それだけで(両手がちゃんと使えるのに)採血が下手な私は尊敬してしまいます。

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復職

 まだ若いのに大病をして体に障害が残ってしまったλさん。入院してからずっと「早く退院させろ、早く退院させろ」と要求し続けていたのに、私が「お待たせ。そろそろ退院の時期が近づきましたよ」と言うと、大喜びをされましたがその後顔がずっと曇っています。
 実はこれはよくある現象です。それまでは「嫌な入院生活、バラ色の日常生活」のイメージだから「とにかく早く退院」に夢中だったのが、いざ「日常生活」が現実として目の前に見えてくると「イメージ」はかき消え「この障害を抱えて、日常にちゃんと復帰できるだろうか」と不安で一杯になるわけ。気持ちが思いっきり揺れまくっているわけですが、これは“健康的”な反応と言えるでしょう(「不安」にも「健康的な不安」と「不健康な不安」がある、と私は考えています)。
 こんな場合「大丈夫だろうか、大丈夫だろうか」「何かあったらどうしよう」と思い続けるのは“生産的”ではありません。心のエネルギーを堂々めぐりにだけ使っているわけですから。ですから私は「退院後の生活」で具体的に何が問題になりそうか、リストアップしてもらうことにしました。具体的に「解決策」を考えるのはエネルギーが無駄遣いされずに「何かが生産される」場合がありますし、最低限「退院後の生活のシミュレーション」にはなります。。
 意外に、致命的な障壁はありませんでした。日常生活ではもちろんいくらか問題は残っていますが、それは“不便”のレベルです。ただ、大きな問題は「復職」でした。
 これについては、本人と私がいくら相談しても解決しませんので、職場の上司を交えて相談することにしました。大企業で「疾病によってちょっとでも能力が落ちているのだったら、そんな奴はもういらない」という態度の所に出くわしたことがある、は以前書いたことがあるはずですが、幸い今回は温かい企業でした。本人同席の面談で直属上司に「何ができる」「何が不得意」「不得意分野をカバーするためには何が必要か」といった話を(病院で検査した範囲内で)すると、上司はその話をかみ砕いて理解して「なら職場では○○をすれば、フォローできますね」という反応を。これだったら復職は大丈夫かも、と私はやや安心しました。少なくとも職場環境としては、「職場への復帰」「仕事を最初は加減してできるできないを確認しながら少しずつ増やす」がしてもらえそうですから(「リハビリテーションとしての仕事」になるわけです)。λさんはもともと優秀な人ですから、その「人財」をみすみす失いたくない、というのもあるでしょう。
 ただ、問題は二つあります。一つは「通勤」。これまでは自家用車での通勤だったのが、しばらくはバスや電車になりそうです。ラッシュ時の通勤はしんどいだろうな。もう一つは「会社」。直属上司はOKだとしても、経営陣の判断は別かもしれません。そこの所までは私にはフォローできませんが、やはり気になります。どうかすべてがうまくいきますように。

 

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血小板成分献血

 私はこれまで400mlの全血献血をしてきていました(いちばん最初の頃には200mlだったこともあります)。で、この年になって血小板成分献血というものを初体験してきました。
 いやもう、好奇心がうずうずです。なにしろ、1時間もかかる、というのが刺激的。1時間も何をやっているのだろう、その間どうやってみんな時間を潰しているんだろう、なんて思いません?
 血管を見た看護師さんがにこにこ喜んでいます。何か面白いことが浮き彫りにでもなっているのか、と私も自分の腕を観察しますが、いつも通りぷくりと盛り上がった静脈でしかありません。
 で、ぶっとい針が右腕と左腕にはいると、あら、もう何もできません。頭の上の機械が何をやっているのか見ようと思ってもよく見えません。(見ようとごそごそしたら、「どこか痛いですか?」と看護師さんが飛んできました)
 もちろん何をやっているのかは知っています。遠心分離で私の血液をぶんぶん回して、血小板(と少量の血漿)を分離し、残りは「これはいらね、でも捨てるのはもったいない」と私の体に戻しているわけです。(ということは、私の体はゴミ捨て場代わり?)
 することもないので、ぼーっとテレビを見ていました。しかし、ワイドショーと言うんですか?あんなのを一日見ていたら、バカになりそうだな、という感想しかもてませんでした。次回はiPodでも持っていって、まとめて時間が取れたら聞こうと思ってそのままになっている落語を聞こうかな。
 で、1時間が終了すると、看護師さんが焦っています。聞くと、取れた量が多すぎて、終了の処置(袋を閉じるのかな?)が上手くいかない、とのこと。なんでも平均が300mlくらいなのが、私のは50多く取れた、とのことでした。300というのは聞き間違いかもしれませんが、ともかく“大漁”なのは良いことですよね?
 で、その日の午後、体に変調が。妙に空腹感がつのるのです。「カリオストロの城」でルパン三世が「血だ、血が足りねえ」と肉やら何やらを大量にむさぼり食うシーンがありましたが、なんだかそれに0.1%くらい似た感じです。1日で元に戻りましたが、全血献血ではこんなことはなかったので、何が起きたのかと我が体ながら、不思議です。


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個人認証

 パスワード、顔写真、指紋、声紋、静脈のパターン、網膜……さまざまな個人認証の方法が現在用いられています。
 病院でも個人認証は重要です。特に患者さんの個人認証に失敗すると、本来はしなくて良い採血やレントゲン撮影をしてしまったり、処方箋を取り違えたり、はては手術する場所を間違えてしまったり、というとんでもないことが起きます。そこでよく行なわれるのが「フルネームを呼ぶ」「ネームバンドを手首につける」という手法でしょう。
 私が勤務する病院でも入院患者にはネームバンドが採用されています。もっとも現場では「顔を見たらわかる」とそのチェックを厳密には行なっていないのではないか、と思われるフシがあって、時々「取り違え」のエラーが起きています。そこで医療安全対策委員会は定期的に「ネームバンドを必ずチェックすること」と呼びかけます。
 ところで私は、本来の業務の他に“副業”として「褥瘡対策委員会」の仕事もしています。そのため定期的に病院の全病棟をパトロールして、褥瘡を持つ患者さん全員の診察をします。現在はどの病棟も褥瘡持ちは0〜2人なのでそれほどの手間ではないんですけどね。で、ふと気づくと、私自身が「ネームバンドでの個人認証」を行なっていませんでした。あらららら。これはまずいなあ。ただ言い訳になりますが、「褥瘡による個人認証」を行なっているので、それで「取り違え」は皆無です(各個人、全部褥瘡の場所や形が違いますから)。「ネームバンドの確認」は「目的」ではなくて「手段」ですから、結果として「患者取り違え」が起きなければ「褥瘡の確認」を本人確認の「手段」としてはダメ?なんてことをほざいたら、現場の看護師さんや褥瘡対策委員会の委員たちは、笑い転げながら承認してくれましたが……やっぱり、ダメ?

 

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これは誰の脚?

 これは実話をもとにしたフィクションです。

 大きな病気で入院することになったγさん、最初は遷延性意識障害もあってなかなかコミュニケーションが難しかったのですが、治療によって少しずつ状態は改善してきました。しかし、どこかぼーっとした、というか、心ここにあらずの状態が続いています。
 ある朝、いつものように回診に行くと、γさんの表情がいつもと違います。目に力があるのですが、非常に心配そうなのです。尋ねると「先生、これは誰の脚ですか?」と、ベッドの中を指さします。どれどれと布団をめくって見るとγさんの下半身が見えます。γさんの下半身だけが見えます。
「どれです?」と私。
「これです、これ」と自分の片脚を指さすγさん。
「私にはγさんの脚に見えますが」
「いや、私の脚じゃないです。一体、誰の脚なんです?」

 会話がかみ合っていないようですが、二人とも真面目です。γさんは別に妄想を抱いたり幻覚を見ているわけではない、というのが私の判断です。身体失認だったら「自分の体が存在していることを無視する」のですが、この場合には「脚が存在していること」は認識できていて、でも「それが自分のものである」という認識ができないわけですから、おそらく固有感覚の障害による現象でしょう。

 固有感覚とは、「五感」以外の感覚で、わかりやすく書くと「自分の手足が存在することが一々確認しなくてもわかる感覚」「自分の手足がどんな位置でどんな角度にあるかが見なくてもわかる感覚」です。ふだん意識することはありません。だけどこの固有感覚があるから、私たちはいろいろな運動(たとえば、ろくに球を見なくてもキャッチボールができる、手探りで暗闇を歩く、タッチタイピング、など)ができています。
 この固有感覚が失われると、「そこに存在する脚」は「自分の脚」として認識できなくなります。一々目で見ないとどんな角度でどんな運動をしているかわかりません。自分の体にくっついているのに、“自分の一部”でなくなっているのです。γさんもそのことに気づいて不思議に思っていたのでした。

 オリバー・サックスが著作『妻を帽子とまちがえた男』と『左足をとりもどすまで』でこれと類似のエピソードを取り上げています。「ベッドの中に誰かが悪戯で差し込んだに違いない“他人の脚”を、邪魔だからベッドの外に放り投げたら、なぜか自分の体も一緒にその脚に引っ張られてしまって、ベッドの外にその“脚”だけではなくて“自分”までもが落ちてしまった」といった、なかなかダイナミックなエピソードでした。

妻を帽子とまちがえた男』オリバー・サックス 著、 高見幸郎・金沢泰子 訳、 晶文社、1992年、2900円(税別)
左足をとりもどすまで』オリバー・サックス 著、 金沢泰子 訳、 晶文社、1994年、1800円(税別)


 特に『左足をとりもどすまで』では、著者自身の固有感覚喪失体験から、固有感覚の障害によって「自分の肉体が存在すること」への無意識の確信が揺らぎ、結果としてアイデンティティの危機までも生じることが、実にリアルに描かれています。

 さて、治療はどうしたものでしょう。まず私はγさんに「これは病気によって生じた現象であること」「精神異常などではないこと」を説明して安心感を持ってもらうことから始めました(ご家族にも同じ説明をしました)。だけど次は何をしたら良いのでしょうねえ。とりあえず、リハビリテーション?  特効薬はたぶん無いんですよね。


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これは誰の脚?

 これは実話をもとにしたフィクションです。

 大きな病気で入院することになったγさん、最初は遷延性意識障害もあってなかなかコミュニケーションが難しかったのですが、治療によって少しずつ状態は改善してきました。しかし、どこかぼーっとした、というか、心ここにあらずの状態が続いています。
 ある朝、いつものように回診に行くと、γさんの表情がいつもと違います。目に力があるのですが、非常に心配そうなのです。尋ねると「先生、これは誰の脚ですか?」と、ベッドの中を指さします。どれどれと布団をめくって見るとγさんの下半身が見えます。γさんの下半身だけが見えます。
「どれです?」と私。
「これです、これ」と自分の片脚を指さすγさん。
「私にはγさんの脚に見えますが」
「いや、私の脚じゃないです。一体、誰の脚なんです?」

 会話がかみ合っていないようですが、二人とも真面目です。γさんは別に妄想を抱いたり幻覚を見ているわけではない、というのが私の判断です。身体失認だったら「自分の体が存在していることを無視する」のですが、この場合には「脚が存在していること」は認識できていて、でも「それが自分のものである」という認識ができないわけですから、おそらく固有感覚の障害による現象でしょう。

 固有感覚とは、「五感」以外の感覚で、わかりやすく書くと「自分の手足が存在することが一々確認しなくてもわかる感覚」「自分の手足がどんな位置でどんな角度にあるかが見なくてもわかる感覚」です。ふだん意識することはありません。だけどこの固有感覚があるから、私たちはいろいろな運動(たとえば、ろくに球を見なくてもキャッチボールができる、手探りで暗闇を歩く、タッチタイピング、など)ができています。
 この固有感覚が失われると、「そこに存在する脚」は「自分の脚」として認識できなくなります。一々目で見ないとどんな角度でどんな運動をしているかわかりません。自分の体にくっついているのに、“自分の一部”でなくなっているのです。γさんもそのことに気づいて不思議に思っていたのでした。

 オリバー・サックスが著作『妻を帽子とまちがえた男』と『左足をとりもどすまで』でこれと類似のエピソードを取り上げています。「ベッドの中に誰かが悪戯で差し込んだに違いない“他人の脚”を、邪魔だからベッドの外に放り投げたら、なぜか自分の体も一緒にその脚に引っ張られてしまって、ベッドの外にその“脚”だけではなくて“自分”までもが落ちてしまった」といった、なかなかダイナミックなエピソードでした。

妻を帽子とまちがえた男』オリバー・サックス 著、 高見幸郎・金沢泰子 訳、 晶文社、1992年、2900円(税別)
左足をとりもどすまで』オリバー・サックス 著、 金沢泰子 訳、 晶文社、1994年、1800円(税別)


 特に『左足をとりもどすまで』では、著者自身の固有感覚喪失体験から、固有感覚の障害によって「自分の肉体が存在すること」への無意識の確信が揺らぎ、結果としてアイデンティティの危機までも生じることが、実にリアルに描かれています。

 さて、治療はどうしたものでしょう。まず私はγさんに「これは病気によって生じた現象であること」「精神異常などではないこと」を説明して安心感を持ってもらうことから始めました(ご家族にも同じ説明をしました)。だけど次は何をしたら良いのでしょうねえ。とりあえず、リハビリテーション?  特効薬はたぶん無いんですよね。


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退院完了

 テレビドラマの「ER」だったか他のドラマだったかは忘れましたが、アメリカの病院で、退院患者が「自分は歩ける」というのに車椅子に乗せられて、玄関を出たら「はい、ここからは自分の足でどうぞ」と言われるシーンがありました。患者はあきれて言います。「病院の中で転んだら責任問題になるから車椅子に乗せたんだな」。
 訴訟社会だから少しでも病院が訴えられるリスクを減らすための措置でしょうが、患者の機嫌を損ね車椅子を押す人を投入しなければならないわけで、あまり好ましい情景とは思えませんでした。たぶんそう感じているアメリカ人もいるから、ドラマでそのように描かれたのでしょうが。
 ところで、日本の病院での「退院シーン」は、ドラマやニュースでは病院の玄関で白衣姿がずらりと並んで退院する人を見送る、となりますが、現実問題としてはせいぜい病棟で挨拶をしてエレベーターに乗る姿を見送る、が多いように思います。
 ただ、そこで気になるのは、「病棟から歩いて出られる」ことと「自宅に無事に帰り着く」こととは別の問題、ということです。病棟は基本的に歩きやすいように造られています。しかし、自宅に帰る道中の多くは「バリアフリー」ではありません。たとえ途中がすべて平面でも、自宅の前に階段が数段、なんてこともよくあります。そもそも病院の駐車場で自家用車やタクシーに乗ろうとして、その座席に安全に座れるように、足を上げる練習をしてあります?(身を屈めたりお尻を持ち上げたり下げたりも必要ですよね)  もしもふらっとしたとき、訓練を受けていない素人がバランスを崩した人を無理に乗せようとすると、自分の腰を痛めるか一緒に転けるかのどちらかになりそうです。
 「おかだはそんな“練習”を患者にやらせているのか?」という質問が飛んできそうですが、答えは「イエス」です。退院決定前に、階段が歩けるか、車への乗降ができるか、くらいは確認します。「患者が病院の玄関から無事に出ること」ではなくて「家に無事に収まること」によって「自宅への退院」は完了する、と考えていますから。さすがに自宅まではついて行きませんけれどね。

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