転がるイシあたま

医療系の雑談ブログです

生レバーも禁止の方向で

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 院内感染対策では、個々の病原体一つ一つに「禁止」を言うのではなくて、まず「スタンダード・プリコーション(標準対応策)」で対応してそれでは足りない部分には特別に対応策を追加します。典型的なのがたとえばノロウイルスでしょう。たとえば、消毒薬が標準のものでは力不足だから、次亜塩素酸ナトリウムを使用する、と。ここで大切なのは「基礎的な部分(日常的な対応)に関しては標準予防策で」「特殊な部分に対しては個別の対応で」の原則が確立しているかどうか、です。「個別の対応」はその「原則」の上に立てた方が、無駄も事故も少なくなります。

 ところで厚生労働省の部会で「生レバー販売禁止案」が提案されたそうです。
生レバー販売禁止案、厚労省の部会で提案」(日テレNEWS)
これは議論が楽な方向(とりあえず方面)に走っているだけに私には見えます。「何か問題がある」→「とりあえず禁止」としておけば「解決」のわけですから。何より「対策」のためにお金もかからず汗もかかずにすむ。エアコンの効いた部屋で口だけ動かしていればいい。
 私自身は焼肉屋でレバ刺しは食べないから焼肉屋で販売禁止になっても痛くも痒くもありませんが、だからといって国の施策を楽して決めよう、という態度に賛成もしたくありません。ここで大切なのは、院内感染対策と同様、「一般原則」と「個別の対応」です。食品が安全であるように/調理場が安全な環境であるように、基準を定める。その基準が守られているかどうかの検証を地道に行なう。その基準を特殊な病原体または特殊な食品が突破するようなら、まず基準を見直す。見直した基準が有効かどうか検証する。それも無効なら、その「特殊性」に合わせた個別の対応策を検討する。
 そういった努力をせずに「問題がある。禁止だ」と言うだけでことを収めようとするのは、書類をいじくるだけで満足して現実にきちんと向き合おうとしない態度に私には見えます。私はアメリカの禁酒法のことを思い出しています。『アスピリン・エイジ』では「禁酒法自体がこっけいなものだった」と酷評されていますが、そのこっけいな禁酒法が生みだしたのは大量の密造酒とヤミ酒場でした。生レバーや生ユッケに酒ほどの強い需要があるかどうかは知りませんが、単に「禁止」と言うだけで知らんぷりをしていたら、へたすると生レバーがヤミに入ってしまうかもしれませんよ。


参考図書:『アスピリン・エイジ 1919-1941』イザベル・レイトン 編、木下秀夫 訳、 早川書房、1971年、1800円


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死語(135)友引に退院

 20世紀に小さな病院に勤務していたとき、そこでは退院が「大安」と「友引」に集中していました。田舎のせいか、「退院して良いですよ」と言った瞬間、患者さんも家族の人も暦をめくり始めるのです。
 空きベッドがある状況だったらそれほど問題ではありません。大体2〜3日待てばベッドが空くのですから。しかし、一日でも早く空きベッドが欲しい場合には、この「ちょっと待ってね」行動は困ります。私は困りませんが、次に入りたい人が入れなくて困るのです。そこで私は「世間に決めてもらわなくても、帰れる日が良い日ですよ。そもそも入院するときに“良い日”は選ばなかったでしょ?」と言ってました。前半はともかく後半は理屈にも何にもなっていませんが、それでもそれで納得する人が多かったのは、不思議です。

 「先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口」が繰り返し登場する「六曜」は日本ではポピュラーな占い(または迷信)ですが、もとは中国での時刻占いだったそうです。それが日本に入ってきて、室町時代には「大安・留連・速喜・赤口・将吉・空亡」となった、と私はいつか読んでメモしています(ただし、出典をメモし忘れているのでウィキに書き込みできません)。で、wikipedhiaには「即吉→共引→周吉→虚亡→泰安→赤口」の順で昔はサイクルしていた、とあります。
 またまた私の(出典抜きの)メモには、「空亡」は「虚亡→物滅」と変化して最後に「仏滅」になった、と書いてあります。なんだか日本語で中国の占いを好き放題にいじくり回している印象です。
 ちょっと話がずれますが、どうして「仏滅」って嫌われるんでしょうねえ。まともな仏教徒だったら仏が滅する事が無いことを知っているし、そもそも「入滅」とは涅槃にはいることですから別に忌むべきことではないはずです。そして仏教以外の信徒には、仏が滅しようが滅しまいが、そんなのは自分には無関係のどーでも良いことです。
 学校で歴史や古典を学んでいるとき、平安貴族が「呪い」を信じ「物忌み」や「方違え」で行動ががんじがらめになっているのを「なんて迷信深いんだ」と私は笑っていましたが、それと同じ笑いを現代日本社会にも向けなきゃいけないんでしょうかねえ。


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容認か否か

 原子力の平和利用(商業利用)を認めるかどうか、で現在世界中で意見が割れて、「認めない」が現時点では多数派のように見えます(マスコミバイアスがかかっているだけかもしれませんが)。
 原子力は発電に使われているだけではなくて、たとえば原子力潜水艦や空母などの兵器(乗物に分類した方が良いです?)、農業(ジャガイモの発芽防止、昆虫の不妊化処置(不妊の雄を大量に放つことで害虫の繁殖を抑える)、突然変異の誘発(品種改良目的)など)、医療(放射性同位元素による検査、癌の放射線治療)、産業(細かい傷の非破壊検査など)……いろいろな分野で利用されています。
 私としては原子力利用の一切禁止はちと困ります。自分が属する医学の分野での話ですが、検査と放射線療法ができなくなるのは困りますから。
 だったら、妥協案として、どこかで線を引きましょうか。たとえば「低量」と「高量」。もっとも、こう言った瞬間「どこで線を引くんだ。その根拠は?」と突っこまれそうです。「医学で現在用いている量よりちょっと上」と言ったら、私は困りませんが、他の分野で困る人が出そうです。ならば、「臨界量より少し下の量の放射性物質まで」としましょうか。これなら臨界でえらいことに、はなくせそうです。ただ、テロで奪われてそのへんにばらまかれて世間がえらいことに、の可能性は残りますが。
 ちょっと過激な意見も書いておきましょう。「事故が起きることは容認する」という立場も考えられます。いやあ、自分で書きながら、すごい意見だ、と思えます。事故込みで原子力発電を継続しよう、というのですから。これだとまるで原子力ではなくて原死力か、と言いたくなります。ただこの意見には前提条件を付けておきましょう。「事故の確率が容認できるレベル以下であること」と。たとえば「年間に1万分の1件以下」とか。これだと、私が恐いと思うレベル(5%以上)に到達するまでには何十年か何百年かはある、ということになるはずです(計算をしていないのでここに正しい数字は出せませんが)。もっともこの意見のネックは、「事故を容認する」ことができるかどうかと「事故の確率が低いことの保証」がきちんと得られるかどうか、です。特に確率の保証(と検証)ができなければ、この意見はただの机上の空論・砂上の楼閣になってしまうのが、難点です。


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理想の東西

 「理想」ということばは、「人類の平和」「完全な医療」といった“地平線の向こう側”の壮大な話題について用いられることが多くて、だからそういったことを言う人は「まあ、そうなるのが理想なんですが」と最初から実現をあきらめた口ぶりになっていることが多いように思います。
 そうかと思うと、「理想の結婚相手」など「自分自身」に非常に接近した卑近な例に用いられることもあります。もっともこの場合も最初から実現をあきらめた口ぶりになっていることがありますが。
 だけど「実現可能な理想」は、実はその「地平線の向こう側」と「自分自身」の間に拡がる“中間領域”に存在しているのではないか、と私は考えています。

 プラトンは「イデア」という概念で「理想」について語ろうとしました。私の理解では、プラトンにとってこの世は、もっと高次元に存在する世界が低次元に“投影”されたもので、だから高次元の世界に存在する永遠なる物や理想的なる物は、この世界では歪められ本来の姿や性質を隠している、となります。立体物を影絵にしたら細部が失われますね。それと同じような現象です。プラトンはそういった「不完全な現実」の中に「本来の実在」(のカケラや雰囲気)を見つけようとし、それを「イデア」と名付けました。この言葉はのちに英語の「アイデア」や「理想の(ideal)」ということばにつながっていきます。
 中国の「易」の思想にもそれに似た匂いを私は嗅ぎとっています。太極という万物の根源がこの世が存在する次元に“投影”されてこの世界が構成されている、というのが易の思想の根っこですが、その過程で太極は歪められ「陰」「陽」に二分されてしまった、とされています。ただ古代中国人のすごいところは、だったらどうするか、を考えたとき「自分たちはこの世で生きるしかない」と覚悟を決めたことでしょう。自分たちは太極そのものを知ることはできない、だったら目の前にある陰陽からそちらに近づいて人生の指針としよう(易の占い)、あるいは天地の摂理に従って体を動かすことで陰陽のバランスを是正して太極に近づこう(太極拳)、と現実的な対応をしているように私には見えます。

 で、今の日本での「理想だけど(理想だから)、結局実現は不可能なんだよな」というあきらめ気分は、“プラトンの呪縛”と言って良いのではないか、と私は考えています。だからその反動として「個人レベルでの卑近な理想」が生じてしまう。
 ここで私が思い出すのは、新渡戸稲造です。彼は『武士道』の著者として知られていますが(「前の五千円札の肖像」の方がもっと有名かな?)、『自警』というたいへん面白い本を大正年間に出しました。『自警』で「理想」は「合理的で節度のある欲望の要求」と定義づけられています。そして「その理想を、自分の行為によって少しずつ現実に“翻訳”していくこと、それが人生だ」と高らかに宣言されます。もちろん「理想」が丸々実現できることはありません。量的にはその何パーセントか、質的にも最初に思ったものとは違った形で、ということはあるでしょう。しかし少なくともその努力を続けていたら、生きているうちに「理想」のいくつかは必ず何らかの形で実現できる、と新渡戸は読者を勇気づけます。
 ここだけ見たら最初に書いた「卑近な理想」と同じように見えます。ただそれと新渡戸が違うのは「合理的」「節度ある」ものを「自分が実現していく」ことです(逆に言えば「合理的で節度があるからこそ、実現可能」です)。不合理で節度のないものは、理想ではなくて空想や欲望にすぎない、と新渡戸は切って捨てます。さらに、『自警』で新渡戸は書いていませんが、そこで視線を「社会」に向けたら、「理想」が「地平線の向こうと卑近の中間領域」に拡がっていきます。そのような意識で生きる人が多い社会は、個人同士のぶつかり合いは多いでしょうが、少なくともダイナミックで(政体とは関係なく)デモクラティックな社会であるはずです(自分の「理想(人生)」を大事にする人は、他人のそれも大事にしなければならないはずですから)。そのような社会でなら、未来は様々な人の「理想」が混じり合うことで、少しずつ(おそらくは良い方向に)変化していくでしょうから。(ここで私は『マネジメント』(ドラッカー)の「マネジメントをする人間に必要な唯一の資質は『真摯さ』だ」も思い出します。もしかしたらお二人は地球の東西で同じようなことを考え別の言葉で表現しているだけなのかもしれません)


参考図書『新訳・自警』新渡戸稲造 著、 渡邊毅 編訳、 PHP、2008年、950円(税別)



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臍帯血

 骨髄移植のかわりに臍帯血を、というのを聞いた方も多いのではないでしょうか。ただ、これは誤解を受けやすい名称だと私には思えます。「臍帯血」だと「ヘソの緒に存在する血液」と聞こえますから。実際には「臍帯(ヘソの緒)」よりも、「胎盤」に含まれる血液の方が量ははるかに多いはずです。で、「臍帯に存在する血液」と「胎盤に含まれる血液」はどちらも「臍帯血」なのです。
 なぜ臍帯血が重要視されるかというと、造血幹細胞が豊富に含まれているからです。しかも現代社会では、ヘソの緒は保存されることはあっても胎盤はふつう捨てられます。だけどこんなに役立つものをただ捨てるのはもったいない。しかも、骨髄を採取するよりもはるかに利用しやすいのですから、捨てるくらいなら有効利用しましょうよ、ということで、臍帯血の利用、となるわけです。
 そういえば、動物によっては後産(子供の後から出てくるもの、つまり胎盤)をぺろりと食べてしまう、と聞いたことがあります。少なくとも栄養にはなるでしょうからこれまた「臍帯血の有効利用」だったのかな?


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鏡をのぞく

 患者さんの顔は、情報の宝庫です。顔色、表情、視線などから様々なものが感じ取れます。ただ、あまりじっと見つめると相手の視線を固定化する作用が生じるので、体の所見を見るときには私はわざと視線を全体に拡散させてあまり患者さんの目だけを見つめないようにしています(眼球の動きが自然か不自然か、も重要な情報ですので)。
 ただ、そうやって対面する状況では、「他人の顔」だけを見るのではなくて、そこにまるで「鏡」があるように、「自分の顔」を見る作業が時には必要でしょう。意味は二つあります。
1)「自分がこの患者さんの立場だったら、どう感じるだろうか」という共感を得るため
2)「この患者さんの目に、自分はどんな風に映っているだろうか」の検証のため

 本当に鏡がついていたら、2)はわかりやすいんですけどね。瞳を覗きこんだら、私の顔が見えるかな?


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鏡をのぞく

 患者さんの顔は、情報の宝庫です。顔色、表情、視線などから様々なものが感じ取れます。ただ、あまりじっと見つめると相手の視線を固定化する作用が生じるので、体の所見を見るときには私はわざと視線を全体に拡散させてあまり患者さんの目だけを見つめないようにしています(眼球の動きが自然か不自然か、も重要な情報ですので)。
 ただ、そうやって対面する状況では、「他人の顔」だけを見るのではなくて、そこにまるで「鏡」があるように、「自分の顔」を見る作業が時には必要でしょう。意味は二つあります。
1)「自分がこの患者さんの立場だったら、どう感じるだろうか」という共感を得るため
2)「この患者さんの目に、自分はどんな風に映っているだろうか」の検証のため

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上農ではないけれど

 6月には祝日がないなあ、そういえば昔は7月にも祝日がなかったなああれはゴールデンウィークの“反動”だったのだろうか、と思いながらカレンダーを見ていて、ゴールデンウィーク絡みのことを思い出しました。
 何年も前のことです。連休の間病棟では何もなくてゆったりと過ごせるという珍しい現象があって(医者になってから今日までそんなことは数回あったかどうか、です)、連休明けに外来で仕事をしていたら邪魔が入りました。「診断書一枚を書くのに一体何日待たせるんだ」と受付で暴れている人がいる、と。で、その診断書の依頼を受けているのは、私。
 はて?と私は首を傾げます。身に覚えがないからです。調べると事情が分かりました。その人が診断書用紙を持ってきたのは、5月2日の夜、私がもう帰宅した後でした。で、5月6日の朝「4日間も経っているのだから、もうできているべきだ」と来院された、ということです。
 つまり、「診断書を書け」という依頼があったら、私は休日出勤をして書類を片付けるべきだったんですね。

 私は、人を待たせるのも人に待たされるのも、好みではありません。「上農は草を見ずに取り、中農は草を見て取り、下農は見ても取らない」ではありませんが、書類はなるべくためないようにとっとと片付けることにしています。それでも、「患者が急変した?  この書類を書いて行くからちょっと待たせておけ」と言うわけにはいきませんから、そういった場合にはどうしても書類は後回しになります。それは申し訳ないと思っています。でも、だからと言って、連休中に書類仕事をするために出勤をするべきだ、と要求されるのはあまり愉快ではありません(実際には、ひどく溜まっているときには休日出勤をしてでも片付けようとすることはありますが、そういったときに限って書類仕事以外がどんと発生したりするんですよね)。最近あちこちの企業が「営業日○日以内に発送します」なんて表示をしていますが、病院の書類仕事にも「営業日」を導入してもらえませんかねえ。それとも「医者の営業日」は、一日24時間一年365日?


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読書感想:『細雪』

 有名な小説ですが、ちょっと「医学的」に読んでみました。というか、以前読んだ『家で病気を治した時代 ──昭和の家庭看護』に『細雪』が取り上げられていたのを覚えているのですが、内容を忘れているので“原典”に当たることにしたのです。

 初っ端から驚きます。良家の子女がお互いに注射をしているのですから。もちろん危ないクスリではなくて、ヴィタミンです。当時(昭和10年代前半)には脚気はヴィタミン不足で起きる、ということは一般の常識になっていたのですが、それが行きすぎて、ちょっとでも体が不調なら「そやった、あたし『B足らん(ヴィタミンB不足)』やねん。こいさん下へ行って、注射器消毒するやうに云うといてんか」と素人判断と“治療”が一般家庭で行なわれていたのです。戦後すぐの覚醒剤ブームの時、一般人が薬局で覚醒剤を買ってきて自分で注射をしていた文化的素地が、ここに見えるような気がします。
 癇性の女の子(悦子)が寝付きが悪くて(興奮して20〜30分しゃべり続け、結局寝られず「今寝ないと明日学校に行けない」とますます興奮してしまう)、母親の幸子(四姉妹の次女)が「これは脚気の影響ではないか」と思って脈を取るとかすかに動悸、「間違いない、衝心脚気(心臓脚気)だ」とベタキシン(ヴィタミンBの商品名)を注射してやる、というシーンまであります。ホンキデスカ?
 そういえば悦子は不潔恐怖の気味もあって、食事中に箸が汚れた(蝿がとまって汚れたかもしれない)と「熱湯消毒」を何回も女中に要求するので、女中たちも心得て、熱い番茶を食卓に用意しておいて要求がある度に箸先にかけてやる、とか、母親に連れられて外出したとき、路傍に蛆の湧いた鼠の死骸があったのを見ただけで「お母ちゃん……悦子あの鼠の屍骸踏めへんなんだ? ……着物に蛆が着いてえへん?」と心配したりするシーンが描かれています。それを父親は、衛生教育の誤用だと苛立つのですが、今でも似たようなことがありますね。私はエイズが日本で知られ始めた頃の「献血に行ったら感染する」「蚊に刺されたらあぶない」「銭湯は大丈夫か?」騒動を思い出しました。それと、蘆屋(芦屋)は高級住宅街のはずですが、そんなところでも鼠の死骸がごろごろしている環境だったということがわかって、思わずしみじみとしてしまいます。戦前の日本がどのくらい「清潔」だったのか、なんとなく想像できる描写でした。

 三女の雪子の見合い話が上巻では大きなウエイトを占めていますが、そこでの大きな話題の一つが「健康」です。雪子は色白美人なので、肺病(肺結核)があるのではないか、と先方に言われて、そうではないことを証明するために大学病院に行ってレントゲン撮影です。今だったら「HIVがあるのではないか。そうではない証明を見せろ」とお相手の家族が言い出す、といった感じかな?  さらに「精神病の血統」ということばも登場します。これの何が問題かと云えば、その「血統」によって、子供に精神病が発生するのではないか、という怖れです。ただ、すべての精神病患者は精神病の親からだけ生まれてくるんでしたっけ?  すべての精神病患者から生まれる子供は全員精神病でしたっけ?  なお、この「?」は反語などではなくて、純粋疑問形です。私はデータを持っていませんので。ただ、私の感覚では、いくらか確率は高いようではありますが、そこまですごく高い確率ではなかったように思っています。だとしたら、問題にする人は、本当は何を問題にしていたのでしょうねえ。そういえば、ヒロシマ・ナガサキのあと、被爆者・被曝二世で結婚差別がありましたが、あれも「ヒバクの血統」問題だったのかな。だとすると、これからフクシマでも同じことが起きる可能性が大です。日本人の心性は根本的にはそれほど変っていませんから。
 なお雪子の縁談では、強迫的なまでの「調査」が行なわれます。本人周辺での聞き合わせだけではなくて、私立探偵を雇って実家を調査。その報告が不満だったため雪子の本家(長姉の家)はさらに独自に調査をします。「とにかく何かネガティブなデータが出るまで調査を続けるぞ」という固い意志が伝わってきます。良いこと探しとか本人の幸福とか、ではなくて。たぶん結論が先にあってそのためのデータ探しなのでしょう。ここでは私は、トンデモ医療裁判での「とにかく医者のあら探し」の態度を思い出していました。

 そして、「黄疸」。まず素人が「目が黄色い。これは黄疸だ」と診断をつけます。さらに原因は「昨日大きなビフテキを食べたこと」。往診にやってきた医者は「それが原因ですな。ご馳走の食べ過ぎや。蜆汁を毎日飲むといゝですな」と言って「さつと風のやうに」帰っていきます。……これで良いの?  だったら私もこんどやってみようかな。

書誌情報:『細雪』谷崎潤一郎 著、 中央公論社、1949年(50年7刷)、350圓

家で病気を治した時代 ──昭和の家庭看護』小泉和子 著、 農文協、2008年、2667円(税別)
 昭和初期には、庶民は医者にかかることは特別なことで、ほとんどのことは家庭で何とかしていた(湿布なども自家製だった)という“事実”を書いた本です。


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うつとそううつ

 「うつ」と「そううつ」は別の病気です。漢字で書いたら「鬱」と「躁鬱」で「躁」がくっついているだけですけどね。
 私自身、目の前に「鬱の患者」が現われたら、場合によっては自分で治療をすることも考えますが、「躁鬱」の場合にはためらわずに即座に精神科へ紹介します。躁鬱病(双極性障害)は統合失調症と東西の横綱を張る二大精神病の一つです。統合失調症が治療できる医者(施設)だったら躁鬱病の治療に手を出すこともできるでしょうが、内科医の私は統合失調症に手を出さないのと同様、双極性障害にも手を出さないことにしているのです。
 躁鬱でものすごく分かりやすいのは、サインカーブのように躁と鬱が代わる代わるやって来る人ですが、世の中はそんな典型例だけで成立しているわけではありません。特にわかりにくいのが、鬱がメインで気分が上がってきたところがほんのちょっとだけの躁(軽躁状態)の人。これ、本人も回りも「落ち込んでいたけれど、やっと元気になったね」という認識になってしまうことがままあるのです。もちろん元気になるのは良いことなんですけどね。
 こわいのは「躁転」という、急に鬱から躁状態に突入してしまうことです。で、鬱だと思ってうっかり抗うつ薬を無造作に使っちゃうとこの躁転が起きることがある。だから「鬱」と「躁鬱」はきちんと区別した方が良いのですが、それがなかなか難しい。(実際に、何度も躁転を繰り返してはじめて診断がつく、という例がけっこう多いそうです) 
 なお、本人が嫌がると精神病院への入院は基本的に難しいのですが、医療保護入院とか措置入院といった強制的な入院手続きもあります。身近の人で躁鬱病ではないかという人がいた場合、本人と周囲の苦痛を軽くするためにも、精神科へ相談されることをお勧めします。

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