転がるイシあたま

医療系の雑談ブログです

心の局所麻酔

 医者になって嫌だったことの筆頭は、患者さんが良くならない、それどころか亡くなってしまうことがあることでした。それは心を傷つけます(「医者は患者のことで心は傷つかないほど強い」なんて信じている人は、人間のことがわかっていません。「プロとして軽々しく動揺を表に出してほかの人の不安をかき立ててはならない」だったら“正”ですが)。しかし、医学にも医者の能力にも限界はあり、医者をやっているかぎり、患者が悪くなる事態を避けることはできません。
 傷つくたびにどこかに籠って傷が癒えるまで待っていたら、他の患者さんや次の患者さんへの対応ができなくなります。プロの医者としてはその状態に慣れるしかないのですが、ちょうど体の傷の処置をするときに局所麻酔注射を打つように、そういった心の傷に対してもなんらかの“局所麻酔”が行なわれていたのではないか、と私は想像しています。少しずつ耐えやすくなっていきましたから。
 その局所麻酔が下手な(あるいはできない)人は、早期に“燃え尽き”て現場を去っていくしかないでしょう。でも上手くできたら、長持ちします。ただ問題は、局所麻酔が効きすぎた場合です。その場合には、広範囲に心がしびれてしまって、患者さんへのシンパシーを示すことができなくなることがあるのです。
 よく「患者の訴えに冷淡な医者」がいます。最初から心に装甲をまとっている人(対人関係が無神経な人)もいるでしょうが、中には「心が傷だらけで、局所麻酔を打ちすぎてそれが効き過ぎてしまっている人」もいるのではないか、と私には思えます。そのどちらにしても(あるいはそれ以外の原因だとしても)「自分は患者の苦悩を引き受けたくない」「患者の苦痛なんかどうでもいい」と積極的に思うようになってきたら、それは臨床医の辞め時(あるいは心理療法などを受けるべき時)なのかもしれません。“局所麻酔”が心全体を麻痺させるようになってしまっているのですから、医者である以前に人間として問題を抱えてしまっていることになりますので。


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文字通り(62)呼吸

「皮膚呼吸」……これができたら水中で体中からあぶくが出せる
「口呼吸」……これができなかったら、風邪で鼻が詰まったら死ぬ
「胸式呼吸」「腹式呼吸」……結局肺を使う
「呼吸商」……呼吸の商い
「阿吽の呼吸」……最初と最後だけ合っている
「呼吸を呑み込む」……食道発声の前段階
「深呼吸」……「深呼」を吸うこと
「人工呼吸」……よく「人口呼吸」と書かれる可哀想な手技



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ありがたや

 先週町内会主催の祭がありました。昨年・一昨年と救護係をやっているので、今年もその役を引き受けていたのですが、私が骨折したことを知ったお向かいさん(内科のドクター)が「かわって上げよう」と実に有難い申し出を。レントゲンで見ると経過は順調で、数時間待機をしているだけだったら務まるだろうと甘く思っていたのですが、もしも力仕事(たとえば心臓マッサージ)が必要だったら、これは無理なことだと今さらながら気がついて、恐縮しながらもありがたく変わっていただくことにしました。
 私たち一家は、これまでどこに住んでもご近所には恵まれているのですが、今回もその“恵み”の恩恵に与ることができました。「ご近所に恵まれる」ということは、つまりは(私ではなくて)私の奥様の人徳によるものなのでしょう。ありがたやありがたや。で、そういった奥様に恵まれたということは……私の人徳?  なにはともあれ、ありがたやありがたや。

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伝統職人

 竪穴式住居から近世の社寺まで、日本建築の屋根に注目して書かれた本『屋根の日本史』の最後に、「伝統建築関係の職人全般に求められるもの」が列挙されていました。
 近代化によって「職人の矜持」は引き潰されていき、“伝統”は世の中からは軽んじられ、大量生産・大量消費や規格化やプレハブなどが普及することで職種そのものが存続の危機に立たされる、そういった時代だからこそ、この本の著者(伝統建築の屋根職人、特に檜皮葺と杮(こけら)葺のスペシャリストで文化財の修復経験が豊富)が、自分自身に対しても気持ちをこめて書いた文章です。なお、著者は職人に求められるのは「5つ」としていますが、実際にはもうちょっと多くの要素が盛り込まれています。

1)伝統的な道具を自分の手足のように使いこなす力量。「道具は八分作り」ということばがあるそうで、職人が使いこんでいくうちに手に馴染んでいって道具としての完成品になる、逆に言えば、道具を“完成品”にする力量が職人には必要。
2)見ただけで材料の良し悪しを判断する能力。
3)大工や左官など他の現場職の仕事までを理解し、どのようにしたら最高の仕上げにまで持っていけるかという判断力。それぞれの職人はそれぞれが美しい所作(無駄のない動作、美しい姿)を持っていたが、その意味をもう一度見直す必要がある。
4)経験をもとにしたデザインへの構想力。建築学や構造学といった知識に加え、歴史学や考古学、民俗学といった幅広い教養。
5)コンスタントに腕前を上げる努力。古建築は二つと同じものはない。そのつど異なった状況に適応できる力量。

 読んだ瞬間「医者にも同じようなことが言えるなあ」と私は感じます。まずは前提の、近代化によって矜持を引き潰されてきた点からしてよく似ています。
 ……で、
1)の道具を使いこなす力量は、ハイテクに関しては上がっていますが、基本的な器機(たとえば聴診器)を使いこなす力量は明らかに落ちているように私には見えます。この力量の保持は絶対必要です。
2)これは医者としては基本能力なので、絶対必要でしょう。「建築用の材料」ではなくて「患者を見ただけで判断する能力」ですが。
3)チーム医療での他の職種への理解。そして、医者としての「美しい所作」。前半はできてきていますが、後半はどうだろう。ちょいと自省します。というか、医者に限らず、立ち姿や歩く姿に限定してもそれが美しくない人がやたらと多くないです?
4)幅広い教養。これは医者の弱点ですね。(医者だけの弱点かな、とも思いますが)
5)基礎的な力プラスそのたびに違う状況に対応できる応用力。これまた医者としては絶対に必要でしょう。

 こうしてみると、「伝統職人として必要なもの」は医者にも同じように言えそうです。医者は学究としての側面と職人としての側面を持っているから当然と言えば当然なのですが。だけど“今の世の中”が医者に求めているのは、学究とか職人ではなくてサービス業でしたっけ?


参考図書:『屋根の日本史 ──職人が案内する古建築の魅力』原田多加司 著、 中公新書1777、2004年、800円(税別)


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死語(118)5時に夕食

 昔の、と言ってもほんの20年くらい前、日本の多くの病院で、夕食は午後5時でした。
 これ、私も経験はありますが、こんなに早く夕食を食べると、早く寝ないと夜中に腹が減ってきて眠れなくなっちゃうんですよね。もっとも、早く寝ても、夜中に腹が減って目が覚めるのですが。
 「5時」の理由は、労務対策と私は想像しています。5時すぎに給食の職員のほとんどを帰したい。だから5時までに夕食をつくって配膳して、片付けは少数の残業組が、ということで。だけどこれはあくまで「つくる側」の理由で、「食べる側」としては「5時」は不評でした。
 もっとも「6時」になって好評になったかといえばそうではなくて、やっぱり不満は渦巻いているわけですが。やっぱり食べたいときに食べたいものを食べたいですもんねえ。
 そういえば配膳のための保温保冷車が普及し始めたのも20年くらい前だったように私は記憶しています(私が初めてそれを見たのは25年くらい前だったかな)。
 で、「次」は何でしょう?  現在の選択メニューは中途半端ですから、もういっそのこと「個食の時代」かな。毎食自分で選択できる食事。で、あまり偏っていたら、栄養士が介入してきて「次の食事では○○と××を摂って下さい」。これはこれでまた不満が出そうですね。「好きなものを食べさせろ。何から何まで管理されているのはいやだ」と。


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死語(118)5時に夕食

 昔の、と言ってもほんの20年くらい前、日本の多くの病院で、夕食は午後5時でした。
 これ、私も経験はありますが、こんなに早く夕食を食べると、早く寝ないと夜中に腹が減ってきて眠れなくなっちゃうんですよね。もっとも、早く寝ても、夜中に腹が減って目が覚めるのですが。
 「5時」の理由は、労務対策と私は想像しています。5時すぎに給食の職員のほとんどを帰したい。だから5時までに夕食をつくって配膳して、片付けは少数の残業組が、ということで。だけどこれはあくまで「つくる側」の理由で、「食べる側」としては「5時」は不評でした。
 もっとも「6時」になって好評になったかといえばそうではなくて、やっぱり不満は渦巻いているわけですが。やっぱり食べたいときに食べたいものを食べたいですもんねえ。
 そういえば配膳のための保温保冷車が普及し始めたのも20年くらい前だったように私は記憶しています(私が初めてそれを見たのは25年くらい前だったかな)。
 で、「次」は何でしょう?  現在の選択メニューは中途半端ですから、もういっそのこと「個食の時代」かな。毎食自分で選択できる食事。で、あまり偏っていたら、栄養士が介入してきて「次の食事では○○と××を摂って下さい」。これはこれでまた不満が出そうですね。「好きなものを食べさせろ。何から何まで管理されているのはいやだ」と。


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税金の無駄遣い

  1975年〜88年まで、アメリカの上院議員ウィリアム・プロキシマイヤーは「もっともばからしく、もっとも無駄な政府予算の使い方」に対して、「ゴールデン・フリース賞」というものを創設して贈呈しました。納税者に対して政府の税金の無駄遣いを知らしめるための政治的行動(プラス、自分自身をマスコミと有権者に売り込むためのパフォーマンス)だったのでしょう。「テレビの見方教室」とか「ウスターソースの買い方を説明した文書作成」とかに連邦政府予算がついた、と聞くとたしかに「おいおい」と言いたくなりますが……問題は「“役に立たない”基礎研究」もその中に混じっていたことです。
 で、その賞をもらった人の中にエイドリアン・フォーサイスという研究者がいました。彼のゴールデン・フリース賞授与対象は「蛍の光の研究」。
 「一体何の役に立つんだ」とプロキシマイヤー議員が言いたくなる気持ちも少しはわかります。ただ……
 結核菌の培養には時間がかかります。ふつう二箇月。さらにその菌が耐性菌かどうかの判定にはさらにもう一箇月。ところがフォーサイスの研究から得られた、ホタルの酵素を触媒にした光反応を使うと、結核菌の判定が数日でできるようになったのです。(ちなみに、この反応は結核菌以外の細菌にも広く応用ができて、たとえばコカコーラの瓶の残留細菌チェックにも用いられているそうです)
 ということで、エイドリアン・フォーサイスはこう言っているそうです。「国家の意思決定の最高位にいる人々の無知ぶりを見るよすがとして、この賞のことを記憶にとどめておくと良い」(*)。いやあ、強烈なしっぺ返しです。プロキシマイヤーさんはせめて、イグ・ノーベル賞くらいの楽しい雰囲気にしておけば良かったのにねえ。露骨に人を馬鹿にすると、その「馬鹿にしたこと」自体が馬鹿だった場合に、すべては自分にブーメランで返ってくるのですね。
 なお「ゴールデン・フリース賞」は「カブトガニの研究」にも贈られていますが、まさにそのカブトガニの血液の研究からリムルス遊走細胞溶解検査薬(リムルス試薬)なんてものがその後商品化されていたりします。(プロキシマイヤーは、財政健全化にだけ夢中になっていて、1967年のノーベル生理学・医学賞がカブトガニの目の研究をしたハルダン・ケファー・ハートラインに与えられたこともご存じなかったのかもしれません)

 ただ「商業的な成功をしない基礎研究はクズだ」「商業的な成功をした基礎研究は褒め称えよう」と言う人は、科学史をもうちょっと勉強した方がよい、と私は思います。研究としての重要性と商業的な成功とはまったく別のものなのですから。そして、商業的な成功しか見えない人は、学問の世界には首を突っこんだり口を出したりはしない方がよい、とも思うのです。「こんなの下らない基礎研究だ」と言っていた人が「この基礎研究から素晴らしい商品が」と聞いた瞬間に褒め称え始めるのは、「なんだこの下らない絵は」と言っていた人が「それはピカソですよ」と言われた瞬間「おお、さすがピカソ」と臆面もなく言っているのと良い勝負にしか見えません。ピカソだろうが無名の新人だろうが、自分にとってそれが気持ち良い絵かどうか、で判断した方が(商業的にはどうかは別として)幸せな人生に近いんじゃないか、なんて思うのですが。ただ、そのためには“見る目”と“自分の人生に対する自信”が必要です。そしてそれと同じことは、絵だけではなくて学問や研究に対しても言えるでしょう。
 「自信」はあっても「見る目」がない人が国家の意思決定をやっていることが多いのが、こう言った問題では最大の困ったことなんですよねえ。


参考図書:
*)『メディシン・クエスト ──新薬発見のあくなき探究』マーク・プロトキン 著、 屋代通子 訳、 築地書館、2002年、2400円(税別)

 世界のあちこちに存在する生物資源の中に、まだわれわれが知らない新薬候補がたくさん存在しているのではないか、と探究してきた人々の物語です。クラーレとかヤドクガエルといった“ポピュラー”なものもありますが、非常に変わったものもたくさん登場しますし、最後には地球規模で環境を考えないと、という気にさせられる好著です。(現在開催されている「COP10」に関連した話題も豊富ですが、あまり偏った主張をしていない点にも好感を持てる本でした)

 
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経験と倫理

 事業仕分けが始まりました。
 年金問題に対して「コンピューター上の記録はオンライン化されており、都心で行う必要はなく、コストが抑えられる地方でも実施できるのではないか」という仕分け人からの指摘に対して、年金機構の人間は「年金記録は個人情報で、業者には豊富な経験と高い倫理観が必要で、都市部でないと優秀な人材を採用できない」(「仕分け2日目 年金記録を議論」(NHK))と答えたのだそうですが……私は2点突っこみたくなりました。

1)上記のことばを素直に“翻訳”すると、「地方の人間は馬鹿で倫理観がない」になっちゃいます。

 このことばって、それが真実が真実でないかに関係なく、地方の人間に対する侮辱だと思いますぅ……というか、法律上名誉毀損はその内容が真か偽かには関係ないんでしたね。あらあら。しかし「都心部」を「都会」で返すのは、ことばのすり替えでは?
 で、2番目のことも思うわけです。

2)まさにその「豊富な経験と倫理観」をあんたたちが欠いていたから、今の年金記録の騒動になったんじゃない?  で、その騒動を起こしたのは「首都圏の人」ではなくて「地方の人」だったのかなぁ?


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DICの難点

 現在の医学の世界で「DIC」は「播種性血管内凝固症候群(はしゅせいけっかんないぎょうこしょうこうぐん、Disseminated Intravascular Coagulation)」を意味します。血液は凝固をしますが、それは血管から出たところに決まっています。血管の中で凝固したらとんでもないことになりますから。その“とんでもないこと”が全身の血管の中で起きる異常事態がDICです。

 だけど今日の私はへそ曲がりなので(私がへそ曲がりなのは“今日”に限定したことではない?)、別の「DIC」について書きましょう。
 私が学生の時に最初に覚えた「DIC」は「点滴靜注胆嚢造影検査 Drip Infusion Cholangiography」でした。胆汁に混じって体外に排泄されるタイプの造影剤を点滴してから腹のレントゲン撮影をすると、胆管や胆嚢が撮影できる、と言う検査です。腹部CTどころか、腹部超音波検査もまだ始まったばかりの時代に、胆道系(特に胆管)の情報を得られるこの検査は、大変ありがたいものでした。ただ難点がいくつもありました。まず画像が薄い。造影剤の濃度の問題でしょう、はっきりくっきりとは写ってくれないのです。それから様々な理由で検査不良となることがありました。特に閉塞性黄疸の場合には、まさにこちらが知りたい閉塞の原因(胆石か、癌か、外からの圧迫か、部位はどこか)によって胆汁が流れなくなっていると、当然造影剤も胆管に移動できず撮影しても空振りになってしまうのです。それでも薄い写真に目を近づけて「総胆管が拡張しているな。ん? ここから下はそうでもないな。よし、狭窄の場所はわかった。壁の変形から見ると、癌ではなくて胆石だな」などとほとんど“心眼”で読影している名人がいました。
 内視鏡が進歩すると、そういった「上」からではなくて「下」から胆管を造影しようとする検査が普及しました。「ERCP(内視鏡的逆行性胆管膵管造影 Endoscopic Retrograde Cholangio-pancreatography)」です。
 胆管は肝臓から下におりていって(その途中で枝分かれして胆嚢をぶら下げています)、出口近くで膵臓の膵管と合流してから十二指腸の下降部に開口しています(その部位をファーター乳頭と呼びます)。医者は長めの内視鏡を患者の口から胃を通して十二指腸まで入れ、そこからさらに細い管をファーター乳頭の中に差し込みます。そしてその管から胆管の中に造影剤を直接注入する、という手技です。これは血液や胆汁で薄められたものではなくて造影剤そのものが胆管に入りますから、くっきりした写真になります。難点は、「点滴だけ」でよいDICとは違って、十二指腸まで(当時の基準でもやや太めの)内視鏡を入れなきゃいけないこと。それと、胆管を写したい時に限って膵管だけ写る、あるいは膵管を写したいのになぜか胆管だけ写る、といった神様の意地悪に耐える心が必要なことでしょう。

 なお、ERCPをやっていると、「ファーター乳頭の出口がもうちょっと広ければ、胆管で詰まっている石が下に落とせるんじゃないか」と思えてきます。その発想から「ファーター乳頭形成術(内視鏡を通して胆管の出口を小さく切開して拡張させる)」が行なわれるようになりました。現在盛んに行なわれている「内視鏡手術」のハシリです。ただこれにも難点が。切る加減が難しくて、小さかったら石は落ちませんし、少し大きすぎたら十二指腸から食物や消化液が逆流して、胆管炎や膵炎の原因になってしまうのです。何にでも常に難点があるものです。


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心房細動

 心臓は毎日こき使われていますから、時に不調となります。構造が不調になるのがたとえば弁膜症や心筋梗塞、機能の不調が不整脈です。
 不整脈の一つに「心房細動」(医者の暗号では「Af」(エーは大文字、エフは小文字です))があります。
 これは心臓の上半分の心房が細かく震える病気で、絶対性不整脈という、パターンが非常に読みづらい不整脈を起します。脈が乱れるのは困りますが、実はもっと困ることがあります。心臓の壁が細かく震えることでそこに血栓ができることがあるのです。おっと、厳密には「血栓ができること」は困りません。「血栓が飛んで、どこかに詰まること」が困るのです。
 血管が原因の脳梗塞は「その血管の支配領域」に限局した脳梗塞になります。ところが心臓から飛んできた血栓が脳梗塞を起す場合、血栓の大きさにもよりますが、太い血管がいきなり詰まったり、あるいはいくつもの固まりに分かれてまるでショットガンで撃ったみたいにいくつもの血管が同時に詰まったりします。これは本当に困ります。
 ですから、不整脈そのものが命取りになるわけではない心房細動についても、何らかの治療が必要ということになります。
 1980年代だったと記憶していますが、アメリカから「抗不整脈薬のカテゴリー分類(Vaughan Williams分類)」という概念が輸入されました。薬をその作用機序で大きく4つ(I群〜IV群)に分類して、それぞれのカテゴリーがどの不整脈を“担当”するかを明確にしたものです。
 I群は「Naチャンネルのブロック」で、さらに「a」「b」「c」に細分されます。II群はβブロッカー。III群はKチャンネルのブロック。IV群はCaチャンネルのブロック。
 なお、私がこの分類を覚えたころには日本ではまだI-cとIIIのカテゴリーの薬は未発売でした。
 で、「心房」を担当するのは「I-a」「I-c」の薬とされていました。ですから当然日本の医者は心房細動に対して「I-a」の薬を使います(そのうち「I-c」も発売されたので、そちらも使われるようになりました)。
 ところが治らないんです。慢性心房細動は本当に頑固で、なかなか薬で素直に整脈に戻ってくれません。それどころか、下手すると抗不整脈薬の副作用である「不整脈」が出現することがあります。これは困ります。
 さらに21世紀になって「心房細動の脈を正常(洞調律)に戻す治療と、心房細動のままで頻拍にならないようにだけ治療をするのとを比較したら、総死亡率には差がない」という衝撃的な報告がありました(AFFIRM試験)。
 つまり「不整脈を整脈にすることに血道を上げても仕方ない。脈拍数だけ抑えましょう」ということです。
 しかし血栓が飛ぶことは困ります。ですから現在の治療の主流は「ワーファリンで血栓ができることを予防。もしも頻拍などで心機能が落ちそうだったり、あるいはすでに心機能が落ちていたら、それには治療をする」となっています。過去の記憶はどんどん時代遅れとなってしまいます。もっとも、もうしばらく経ったら新しい薬が普及して「ワーファリンはもう時代遅れの薬」となることも確実ですが。(興味のある方は「ダビガトラン」で検索をしてみて下さい)


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